伝《えきでん》をもって長安《ちょうあん》の都に達した。
 武帝《ぶてい》は思いのほか腹を立てなかった。本軍たる李広利《りこうり》の大軍さえ惨敗《ざんぱい》しているのに、一支隊たる李陵の寡軍《かぐん》にたいした期待のもてよう道理がなかったから。それに彼は、李陵が必ずや戦死しているに違いないとも思っていたのである。ただ、先ごろ李陵の使いとして漠北《ばくほく》から「戦線異状なし、士気すこぶる旺盛《おうせい》」の報をもたらした陳歩楽《ちんほらく》だけは(彼は吉報の使者として嘉《よみ》せられ郎《ろう》となってそのまま都に留《とど》まっていた)成行上どうしても自殺しなければならなかった。哀れではあったが、これはやむを得ない。
 翌、天漢《てんかん》三年の春になって、李陵《りりょう》は戦死したのではない。捕えられて虜《ろ》に降ったのだという確報が届いた。武帝ははじめて嚇怒《かくど》した。即位後四十余年。帝はすでに六十に近かったが、気象の烈《はげ》しさは壮時に超えている。神仙《しんせん》の説を好み方士巫覡《ほうしふげき》の類を信じた彼は、それまでに己《おのれ》の絶対に尊信する方士どもに幾度か欺《あざむ
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