うたんい》の便衣《べんい》を着け、誰もついて来るなと禁じて独り幕営の外に出た。月が山の峡《かい》から覗《のぞ》いて谷間に堆《うずたか》い屍《しかばね》を照らした。浚稽山《しゅんけいざん》の陣を撤するときは夜が暗かったのに、またも月が明るくなりはじめたのである。月光と満地の霜とで片岡《かたおか》の斜面は水に濡《ぬ》れたように見えた。幕営の中に残った将士は、李陵の服装からして、彼が単身敵陣を窺《うかが》ってあわよくば単于と刺違える所存に違いないことを察した。李陵はなかなか戻って来なかった。彼らは息をひそめてしばらく外の様子を窺《うかが》った。遠く山上の敵塁から胡笳《こか》の声が響く。かなり久しくたってから、音もなく帷《とばり》をかかげて李陵が幕の内にはいって来た。だめだ。と一言吐き出すように言うと、踞牀《きょしょう》に腰を下《おろ》した。全軍|斬死《ざんし》のほか、途《みち》はないようだなと、またしばらくしてから、誰に向かってともなく言った。満座口を開く者はない。ややあって軍吏《ぐんり》の一人が口を切り、先年|※[#「さんずい+足」、第4水準2−78−51]野侯《さくやこう》趙破奴《ちょう
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