伝《えきでん》をもって長安《ちょうあん》の都に達した。
武帝《ぶてい》は思いのほか腹を立てなかった。本軍たる李広利《りこうり》の大軍さえ惨敗《ざんぱい》しているのに、一支隊たる李陵の寡軍《かぐん》にたいした期待のもてよう道理がなかったから。それに彼は、李陵が必ずや戦死しているに違いないとも思っていたのである。ただ、先ごろ李陵の使いとして漠北《ばくほく》から「戦線異状なし、士気すこぶる旺盛《おうせい》」の報をもたらした陳歩楽《ちんほらく》だけは(彼は吉報の使者として嘉《よみ》せられ郎《ろう》となってそのまま都に留《とど》まっていた)成行上どうしても自殺しなければならなかった。哀れではあったが、これはやむを得ない。
翌、天漢《てんかん》三年の春になって、李陵《りりょう》は戦死したのではない。捕えられて虜《ろ》に降ったのだという確報が届いた。武帝ははじめて嚇怒《かくど》した。即位後四十余年。帝はすでに六十に近かったが、気象の烈《はげ》しさは壮時に超えている。神仙《しんせん》の説を好み方士巫覡《ほうしふげき》の類を信じた彼は、それまでに己《おのれ》の絶対に尊信する方士どもに幾度か欺《あざむ》かれていた。漢の勢威の絶頂に当たって五十余年の間君臨したこの大皇帝は、その中年以後ずっと、霊魂の世界への不安な関心に執拗《しつよう》につきまとわれていた。それだけに、その方面での失望は彼にとって大きな打撃となった。こうした打撃は、生来|闊達《かったつ》だった彼の心に、年とともに群臣への暗い猜疑《さいぎ》を植えつけていった。李蔡《りさい》・青霍《せいかく》・趙周《ちょうしゅう》と、丞相《じょうしょう》たる者は相ついで死罪に行なわれた。現在の丞相たる公孫賀《こうそんが》のごとき、命を拝したときに己《おの》が運命を恐れて帝の前で手離しで泣出したほどである。硬骨漢《こうこつかん》汲黯《きゅうあん》が退いた後は、帝を取巻くものは、佞臣《ねいしん》にあらずんば酷吏《こくり》であった。
さて、武帝は諸重臣を召して李陵の処置について計った。李陵の身体は都にはないが、その罪の決定によって、彼の妻子|眷属《けんぞく》家財などの処分が行なわれるのである。酷吏として聞こえた一|廷尉《ていい》が常に帝の顔色を窺《うかが》い合法的に法を枉《ま》げて帝の意を迎えることに巧みであった。ある人が法の権威を説いてこれ
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