》いた。全軍の将卒に各二升の糒《ほしいい》と一個の冰片《ひょうへん》とが頒《わか》たれ、遮二無二《しゃにむに》、遮虜※[#「章+おおざと」、第3水準1−92−79]《しゃりょしょう》に向かって走るべき旨がふくめられた。さて、一方、ことごとく漢陣の旌旗《せいき》を倒しこれを斬《き》って地中に埋めたのち、武器兵車等の敵に利用されうる惧《おそ》れのあるものも皆|打毀《うちこわ》した。夜半、鼓《こ》して兵を起こした。軍鼓《ぐんこ》の音も惨《さん》として響かぬ。李陵は韓校尉《かんこうい》とともに馬に跨《また》がり壮士十余人を従えて先登《せんとう》に立った。この日追い込まれた峡谷《きょうこく》の東の口を破って平地に出、それから南へ向けて走ろうというのである。
早い月はすでに落ちた。胡虜《こりょ》の不意を衝《つ》いて、ともかくも全軍の三分の二は予定どおり峡谷の裏口を突破した。しかしすぐに敵の騎馬兵の追撃に遭《あ》った。徒歩の兵は大部分討たれあるいは捕えられたようだったが、混戦に乗じて敵の馬を奪った数十人は、その胡馬《こば》に鞭《むち》うって南方へ走った。敵の追撃をふり切って夜目にもぼっと白い平沙《へいさ》の上を、のがれ去った部下の数を数えて、確かに百に余ることを確かめうると、李陵《りりょう》はまた峡谷の入口の修羅場《しゅらば》にとって返した。身には数創を帯び、自《みずか》らの血と返り血とで、戎衣《じゅうい》は重く濡《ぬ》れていた。彼と並んでいた韓延年《かんえんねん》はすでに討たれて戦死していた。麾下《きか》を失い全軍を失って、もはや天子に見《まみ》ゆべき面目はない。彼は戟《ほこ》を取直すと、ふたたび乱軍の中に駈入《かけい》った。暗い中で敵味方も分らぬほどの乱闘のうちに、李陵の馬が流矢《ながれや》に当たったとみえてガックリ前にのめった。それとどちらが早かったか、前なる敵を突こうと戈《ほこ》を引いた李陵は、突然背後から重量のある打撃を後頭部に喰《くら》って失神した。馬から顛落《てんらく》した彼の上に、生擒《いけど》ろうと構えた胡兵《こへい》どもが十重二十重《とえはたえ》とおり重なって、とびかかった。
二
九月に北へ立った五千の漢軍《かんぐん》は、十一月にはいって、疲れ傷ついて将を失った四百足らずの敗兵となって辺塞《へんさい》に辿《たど》りついた。敗報はただちに駅
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