つて來た紀昌を迎へて、やがて眼前に示されるに違ひない其の妙技への期待に湧返つた。
所が紀昌は一向に其の要望に應へようとしない。いや、弓さへ絶えて手に取らうとしない。山に入る時に携へて行つた楊幹麻筋の弓も何處かへ棄てて來た樣子である。其のわけ[#「わけ」に傍点]を訊ねた一人に答へて、紀昌は懶げに言つた。至爲は爲す無く、至言は言を去り、至射は射ることなしと。成程と、至極物分りのいい邯鄲の都人士は直ぐに合點した。弓を執らざる弓の名人は彼等の誇となつた。紀昌が弓に觸れなければ觸れない程、彼の無敵の評判は愈※[#二の字点、1−2−22]喧傳された。
樣々な噂が人々の口から口へと傳はる。毎夜三更を過ぎる頃、紀昌の家の屋上で何者の立てるとも知れぬ弓弦の音がする。名人の内に宿る射道の神が主人公の睡つてゐる間に體内を脱け出し、妖魔を拂ふべく徹宵守護に當つてゐるのだといふ。彼の家の近くに住む一商人は或夜紀昌の家の上空で、雲に乘つた紀昌が珍しくも弓を手にして、古の名人・※[#「栩のつくり/廾」、第3水準1−90−29]《けい》と養由基の二人を相手に腕比べをしてゐるのを確かに見たと言ひ出した。その時三名人
前へ
次へ
全13ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング