昌は直ぐに氣が付いて言つた。しかし、弓はどうなさる? 弓は? 老人は素手だつたのである。弓? と老人は笑ふ。弓矢の要る中はまだ射之射ぢや。不射之射には、烏漆の弓も肅愼の矢もいらぬ。
 丁度彼等の眞上、空の極めて高い所を一羽の鳶が悠々と輪を畫いてゐた。その胡麻粒ほどに小さく見える姿を暫く見上げてゐた甘蠅が、やがて、見えざる矢を無形の弓につがへ、滿月の如くに引絞つてひよう[#「ひよう」に傍点]と放てば、見よ、鳶は羽ばたきもせず中空から石の如くに落ちて來るではないか。
 紀昌は慄然とした。今にして始めて藝道の深淵を覗き得た心地であつた。

 九年の間、紀昌は此の老名人の許に留まつた。その間如何なる修業を積んだものやらそれは誰にも判らぬ。
 九年たつて山を降りて來た時、人々は紀昌の顏付の變つたのに驚いた。以前の負けず嫌ひな精悍な面魂は何處かに影をひそめ、何の表情も無い、木偶の如く愚者の如き容貌に變つてゐる。久しぶりに舊師の飛衞を訪ねた時、しかし、飛衞はこの顏付を一見すると感嘆して叫んだ。之でこそ天下の名人だ。我儕《われら》の如き、足下にも及ぶものでないと。
 邯鄲の都は、天下一の名人になつて戻
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