の放つた矢はそれぞれ夜空に青白い光芒を曳きつつ參宿と天狼星との間に消去つたと。紀昌の家に忍び入らうとした所、塀に足を掛けた途端に一道の殺氣が森閑とした家の中から奔り出てまとも[#「まとも」に傍点]に額を打つたので、覺えず外に顛落したと白状した盜賊もある。爾來、邪心を抱く者共は彼の住居の十町四方は避けて※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り道をし、賢い渡り鳥共は彼の家の上空を通らなくなつた。
 雲と立罩める名聲の只中に、名人紀昌は次第に老いて行く。既に早く射を離れた彼の心は、益※[#二の字点、1−2−22]枯淡虚靜の域にはひつて行つたやうである。木偶の如き顏は更に表情を失ひ、語ることも稀となり、つひには呼吸の有無さへ疑はれるに至つた。「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳の如く、耳は鼻の如く、鼻は口の如く思はれる。」といふのが老名人晩年の述懷である。
 甘蠅師の許を辭してから四十年の後、紀昌は靜かに、誠に煙の如く靜かに世を去つた。その四十年の間、彼は絶えて射を口にすることが無かつた。口にさへしなかつた位だから、弓矢を執つての活動などあらう筈が無い。勿論、寓話作者としては
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