[#「きりり」に傍点]と引絞つて妻の目を射た。矢は妻の睫毛三本を射切つて彼方に飛び去つたが、射られた本人は一向に氣づかず、まばたきもしないで亭主を罵り續けた。蓋し、彼の至藝による矢の速度と狙ひの精妙さとは、實に此の域に迄達してゐたのである。
最早師から學び取るべき何ものも無くなつた紀昌は、或日、ふと良からぬ考へを起した。
彼が其の時獨りつくづく考へるには、今や弓を以て己に敵すべき者は、師の飛衞をおいて外に無い。天下第一の名人となるためには、どうあつても飛衞を除かねばならぬと。祕かに其の機會を窺つてゐる中に、一日偶※[#二の字点、1−2−22]郊野に於て、向ふから唯一人歩み來る飛衞に出遇つた。咄嗟に意を決した紀昌が矢を取つて狙ひをつければ、その氣配を察して飛衞も亦弓を執つて相應ずる。二人互ひに射れば、矢は其の度に中道にして相當り、共に地に墜ちた。地に落ちた矢が輕塵をも揚げなかつたのは、兩人の技が何れも神に入つてゐたからであらう。さて、飛衞の矢が盡きた時、紀昌の方は尚一矢を餘してゐた。得たりと勢込んで紀昌が其の矢を放てば、飛衞は咄嗟に、傍なる野茨の枝を折り取り、その棘の先端を以てハツ
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