シと鏃を叩き落した。竟に非望の遂げられないことを悟つた紀昌の心に、成功したならば決して生じなかつたに違ひない道義的慚愧の念が、此の時忽焉として湧起つた。飛衞の方では、又、危機を脱し得た安堵と己が伎倆に就いての滿足とが、敵に對する憎しみをすつかり忘れさせた。二人は互ひに駈寄ると、野原の眞中に相抱いて、暫し美しい師弟愛の涙にかきくれた。(斯うした事を今日の道義觀を以て見るのは當らない。美食家の齊の桓公が己の未だ味はつたことのない珍味を求めた時、厨宰の易牙は己が息子を蒸燒にして之をすすめた。十六歳の少年、秦の始皇帝は父が死んだ其の晩に、父の愛妾を三度襲うた。凡てそのやうな時代の話である。)
 涙にくれて相擁しながらも、再び弟子が斯かる企みを抱くやうなことがあつては甚だ危いと思つた飛衞は、紀昌に新たな目標を與へて其の氣を轉ずるに如くはないと考へた。彼は此の危險な弟子に向つて言つた。最早、傳ふべき程のことは悉く傳へた。※[#「にんべん+爾」、第3水準1−14−45]がもし之以上斯の道の蘊奧を極めたいと望むならば、ゆいて西の方《かた》大行の嶮に攀ぢ、霍山の頂を極めよ。そこには甘蠅《かんよう》老師と
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