[#「きりり」に傍点]と引絞つて妻の目を射た。矢は妻の睫毛三本を射切つて彼方に飛び去つたが、射られた本人は一向に氣づかず、まばたきもしないで亭主を罵り續けた。蓋し、彼の至藝による矢の速度と狙ひの精妙さとは、實に此の域に迄達してゐたのである。
最早師から學び取るべき何ものも無くなつた紀昌は、或日、ふと良からぬ考へを起した。
彼が其の時獨りつくづく考へるには、今や弓を以て己に敵すべき者は、師の飛衞をおいて外に無い。天下第一の名人となるためには、どうあつても飛衞を除かねばならぬと。祕かに其の機會を窺つてゐる中に、一日偶※[#二の字点、1−2−22]郊野に於て、向ふから唯一人歩み來る飛衞に出遇つた。咄嗟に意を決した紀昌が矢を取つて狙ひをつければ、その氣配を察して飛衞も亦弓を執つて相應ずる。二人互ひに射れば、矢は其の度に中道にして相當り、共に地に墜ちた。地に落ちた矢が輕塵をも揚げなかつたのは、兩人の技が何れも神に入つてゐたからであらう。さて、飛衞の矢が盡きた時、紀昌の方は尚一矢を餘してゐた。得たりと勢込んで紀昌が其の矢を放てば、飛衞は咄嗟に、傍なる野茨の枝を折り取り、その棘の先端を以てハツシと鏃を叩き落した。竟に非望の遂げられないことを悟つた紀昌の心に、成功したならば決して生じなかつたに違ひない道義的慚愧の念が、此の時忽焉として湧起つた。飛衞の方では、又、危機を脱し得た安堵と己が伎倆に就いての滿足とが、敵に對する憎しみをすつかり忘れさせた。二人は互ひに駈寄ると、野原の眞中に相抱いて、暫し美しい師弟愛の涙にかきくれた。(斯うした事を今日の道義觀を以て見るのは當らない。美食家の齊の桓公が己の未だ味はつたことのない珍味を求めた時、厨宰の易牙は己が息子を蒸燒にして之をすすめた。十六歳の少年、秦の始皇帝は父が死んだ其の晩に、父の愛妾を三度襲うた。凡てそのやうな時代の話である。)
涙にくれて相擁しながらも、再び弟子が斯かる企みを抱くやうなことがあつては甚だ危いと思つた飛衞は、紀昌に新たな目標を與へて其の氣を轉ずるに如くはないと考へた。彼は此の危險な弟子に向つて言つた。最早、傳ふべき程のことは悉く傳へた。※[#「にんべん+爾」、第3水準1−14−45]がもし之以上斯の道の蘊奧を極めたいと望むならば、ゆいて西の方《かた》大行の嶮に攀ぢ、霍山の頂を極めよ。そこには甘蠅《かんよう》老師と
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