ると、氣のせゐか、どうやらそれがほん[#「ほん」に傍点]の少しながら大きく見えて來たやうに思はれる。三月目の終りには、明らかに蠶ほどの大きさに見えて來た。虱を吊るした窓の外の風物は、次第に移り變る。熙々として照つてゐた春の陽は何時か烈しい夏の光に變り、澄んだ秋空を高く雁が渡つて行つたかと思ふと、はや、寒々とした灰色の空から霙が落ちかかる。紀昌は根氣よく、毛髮の先にぶら下つた有吻類・催痒性の小節足動物を見續けた。その虱も何十匹となく取換へられて行く中に、早くも三年の月日が流れた。或日ふと氣が付くと、窓の虱が馬の樣な大きさに見えてゐた。占めたと、紀昌は膝を打ち、表へ出る。彼は我が目を疑つた。人は高塔であつた。馬は山であつた。豚は丘の如く、※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]は城樓と見える。雀躍して家にとつて返した紀昌は、再び窓際の虱に立向ひ、燕角の弧《ゆみ》に朔蓬の※[#「竹かんむり/幹」、第3水準1−89−75]《やがら》をつがへて之を射れば、矢は見事に虱の心の臟を貫いて、しかも虱を繋いだ毛さへ斷れぬ。
紀昌は早速師の許に赴いて之を報ずる。飛衞は高蹈して胸を打ち、初めて「出かしたぞ」と褒めた。さうして、直ちに射術の奧儀秘傳を剩す所なく紀昌に授け始めた。
目の基礎訓練に五年もかけた甲斐があつて紀昌の腕前の上達は、驚く程速い。
奧儀傳授が始つてから十日の後、試みに紀昌が百歩を隔てて柳葉を射るに、既に百發百中である。二十日の後、一杯に水を湛へた盃を右肱の上に載せて剛弓を引くに、狙ひに狂ひの無いのは固より、杯中の水も微動だにしない。一月の後、百本の矢を以て速射を試みた所、第一矢が的に中れば、續いて飛來つた第二の矢は誤たず第一矢の括《やはず》に中つて突き刺さり、更に間髮を入れず第三矢の鏃が第二矢の括にガッシと喰ひ込む。矢矢相屬し、發發相及んで、後矢の鏃は必ず前矢の括に喰入るが故に、絶えて地に墜ちることがない。瞬く中に、百本の矢は一本の如くに相連り、的から一直線に續いた其の最後の括は猶弦を銜《ふく》むが如くに見える。傍で見てゐた師の飛衞も思はず「善し!」と言つた。
二月の後、偶※[#二の字点、1−2−22]家に歸つて妻といさかひ[#「いさかひ」に傍点]をした紀昌が之を威さうとして烏號の弓に※[#「棊」の「木」に代えて「糸」、第3水準1−90−9]衞の矢をつがへきりり
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