名人傳
中島敦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)機躡《まねき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]
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趙の邯鄲の都に住む紀昌といふ男が、天下第一の弓の名人にならうと志を立てた。己の師と頼むべき人物を物色するに、當今弓矢をとつては、名手・飛衞に及ぶ者があらうとは思はれぬ。百歩を隔てて柳葉を射るに百發百中するといふ達人ださうである。紀昌は遙々飛衞をたづねて其の門に入つた。
飛衞は新入の門人に、先づ瞬きせざることを學べと命じた。紀昌は家に歸り、妻の機織臺の下に潛り込んで、其處に仰向けにひつくり返つた。眼とすれすれに機躡《まねき》が忙しく上下往來するのをじつと[#「じつと」に傍点]瞬かずに見詰めてゐようといふ工夫である。理由を知らない妻は大に驚いた。第一、妙な姿勢を妙な角度から良人に覗かれては困るといふ。厭がる妻を紀昌は叱りつけて、無理に機を織り續けさせた。來る日も來る日も彼はこの可笑しな恰好で、瞬きせざる修練を重ねる。二年の後には、遽だしく往返する牽挺《まねき》が睫毛を掠めても、絶えて瞬くことがなくなつた。彼は漸く機の下から匍出す。最早、鋭利な錐の先を以て瞼を突かれても、まばたきをせぬ迄になつてゐた。不意に火の粉が目に飛入らうとも、目の前に突然灰神樂が立たうとも、彼は決して目をパチつかせない。彼の瞼は最早それを閉ぢるべき筋肉の使用法を忘れ果て、夜、熟睡してゐる時でも、紀昌の目はクワッと大きく見開かれた儘である。竟に、彼の目の睫毛と睫毛との間に小さな一匹の蜘蛛が巣をかけるに及んで、彼は漸く自信を得て、師の飛衞に之を告げた。
それを聞いて飛衞がいふ。瞬かざるのみでは未だ射を授けるに足りぬ。次には、視ることを學べ。視ることに熟して、さて、小を視ること大の如く、微を見ること著の如くなつたならば、來つて我に告げるがよいと。
紀昌は再び家に戻り、肌着の縫目から虱を一匹探し出して、之を己が髮の毛を以て繋いだ。さうして、それを南向きの窓に懸け、終日睨み暮らすことにした。毎日々々彼は窓にぶら下つた虱を見詰める。初め、勿論それは一匹の虱に過ぎない。二三日たつても、依然として虱である。所が、十日餘り過ぎ
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