皮肉にも、憤《いきどお》る勿《なか》れ、となっていたのである。三造の思出すのは大抵このような意地の悪いことばかりだった。ただ、一、二年前と少し違って来たのは、ようやく近頃になって彼は、当時の伯父に対する自分のひねくれた気持の中に「余りに子供っぽい性急な自己反省」と、「自分が最も嫌っていたはずの乏しさ[#「乏しさ」に傍点]」とを見るようになったことである。
彼は、軽い罪ほろぼしの気持で『斗南存稾』を大学と高等学校の図書館に納めることにした。但し、神経の浪費を防ぐために、郵便小包で送ろうと考えたのである。図書館に納めることが功徳《くどく》になるか、どうかすこぶる疑問だな、などと思いながら、彼は、渋紙を探して小包を作りにかかった。
*
右の一文は、昭和七年の頃、別に創作のつもりではなく、一つの私記として書かれたものである。十年|経《た》つと、しかし、時勢も変り、個人も成長する。現在の三造には、伯父の遺作を図書館に寄贈するのを躊躇する心理的理由が、もはや余りにも滑稽な羞恥としか映らない。十年前の彼は、自分が伯父を少しも愛していないと、本気で、そう考えていた。人間は何と己《おの》れの心の在《あ》り処《か》を自ら知らぬものかと、今にして驚くの外はない。
伯父の死後七年にして、支那《シナ》事変が起った時、三造は始めて伯父の著書『支那分割の運命』を繙《ひもと》いて見た。この書はまず袁世凱《えんせいがい》・孫逸仙《そんいっせん》の人物|月旦《げったん》に始まり、支那民族性への洞察から、我が国民の彼に対する買被《かいかぶ》り的同情(この書は大正元年十月刊行。従ってその執筆は民国革命進行中だったことを想起せねばならぬ)を嗤《わら》い、一転して、当時の世界情勢、就中《なかんずく》欧米列強の東亜侵略の勢を指陳《しちん》して、「今や支那分割の勢既に成りて復《また》動かすべからず。我が日本の之に対する、如何にせば可ならん。全く分割に与《あずか》らざらんか。進みて分割に与らんか」と自ら設問し、さて前説が我が民族発展の閉塞を意味するとせば、勢い、欧米諸国に伍して進んで衡《こう》を中原に争わねばならぬものの如く見える。しかしながら、この事たる、究極よりこれを見るに「黄人の相|食《は》み相闘ふもの」に他ならず、「たとひ我が日本甘んじて白人の牛後となり、二三省の地を割き二三万方里の土地四五千万の人民を得るも、何ぞ黄人の衰滅に補あらん。又何ぞ白人の横行を妨げん。他年|煢々《けいけい》孤立、五洲の内を環顧するに一の同種の国なく一の唇歯輔車《しんしほしゃ》相倚《あいよ》り相扶《あいたす》くる者なく、徒らに目前区々の小利を貪《むさぼ》りて千年不滅の醜名を流さば、豈《あに》大東男児無前の羞に非ずや。」という。則《すなわ》ち分割のこと、これに与るも不利、与らざるも不利、然らばこれに対処するの策なきか。曰く、あり。しかも、ただ一つ。即《すなわ》ち日本国力の充実これのみ。「もし我をして絶大の果断、絶大の力量、絶大の抱負あらしめば、我は進んで支那民族分割の運命を挽回《ばんかい》せんのみ。四万々生霊を水火|塗炭《とたん》の中に救はんのみ。蓋《けだ》し大和民族の天職は殆ど之より始まらんか。」思うに「二十世紀の最大問題はそれ殆ど黄白人種の衝突か。」而《しこう》して、「我に後来白人を東亜より駆逐せんの絶大理想あり。而して、我が徳我が力|能《よ》く之を実行するに足らば」則ち始めて日本も救われ、黄人も救われるであろうと。そうして伯父は当時の我が国内各方面について、他日この絶大実力を貯うべき備《そなえ》ありやを顧み、上に聖天子おわしましながら有君而無臣を慨《なげ》き、政治に外交に教育に、それぞれ得意の辛辣な皮肉を飛ばして、東亜百年のために国民全般の奮起を促しているのである。
支那事変に先立つこと二十一年、我が国の人口五千万、歳費七億の時代の著作であることを思い、その論旨の概《おおむ》ね正鵠《せいこく》を得ていることに三造は驚いた。もう少し早く読めば良かったと思った。あるいは、生前の伯父に対して必要以上の反撥を感じていたその反動で、死後の伯父に対しては実際以上の評価をして感心したのかも知れない。
大東亜戦争が始まり、ハワイ海戦や馬来《マレイ》沖海戦の報を聞いた時も、三造のまず思ったのは、この伯父のことであった。十余年前、鬼雄となって我に寇《あだ》なすものを禦《ふせ》ぐべく熊野灘の底深く沈んだこの伯父の遺骨のことであった。鯱《さかまた》か何かに成って敵の軍艦を喰ってやるぞ、といった意味の和歌が、確か、遺筆として与えられたはずだったことを彼は思出し、家中捜し廻って、ようやくそれを見付け出した。既に湿気のためにぐにゃぐにゃ[#「ぐにゃぐにゃ」に傍点]になった薄樺色地の二枚の色紙
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