この家につめかけていた四人の親戚たちやこの家の家族たちが、大方黙って下を向いていた。彼が障子をあけてはいっても誰も振向かない。彼らの環の中にはいって座を占め、伯父の顔を眺めた。かすかな寝息ももう聞えなかった。彼はしばらく見ていた。が、何の感動も起らなかった。突然、笑い声のような短く高い叫びが、彼の一人おいて隣から起った。それは二、三年前女学校を出たこの家の娘であった。彼女はハンケチで顔をおおって深く下を向いたまま、小刻みに肩のあたりを顫わせている。この従妹が三日ほど前、水の飲ませ方が悪いと言って、ひどく伯父から叱られて泣いていたのを三造は思い出した。
 棺は翌朝来た。それまでに伯父の身体はすっかり白装束に着換えさせられていた。元来小柄な伯父の、経帷子《きょうかたびら》を着て横たわった姿は、ちょうど、子供のようであった。その小さな身体の上部を洗足の伯父が持ち、下を看護婦が支えて、白木の棺に入れた時、三造は、こんな小さな痩《や》せっぽちな伯父がこれから一人ぼっちで棺の中に入らなければならないのかと思って、ひどく傷々《いたいた》しい気がした。それは、哀れ、とよりほか言いようのない気持であった。小さな枕どもに埋まって、ちょこんと小さく寝ている伯父を見ている中《うち》に、その痩せた白い身体の中が次第に透きとおって来て、筋や臓腑がみんな消えてしまい、その代りに何ともいえない哀れさ寂しさがその中に一杯になってくるように思われた。敬われはしたかも知れないが竟《つい》に誰にも愛されず、孤独な放浪の中に一生を送った伯父の、その生涯の寂しさと心細さとが、今、この棺桶の中に一杯になって、それが、ひしひしと三造の方まで流れ出して来るかのように思われるのであった。昔、自分と一緒に猫を埋めた時の伯父の姿や、昨夜、薬をのむ前に「お前にも色々世話になった。」と言った伯父の声が(低い、嗄《しわが》れた声がそのまま)三造の頭の奥をちらりと掠《かす》めて過ぎた。突然、熱いものがグッと押上げて来、あわてて手をやるひまもなく、大粒の涙が一つポタリと垂れた。彼は自分で吃驚《びっくり》しながら、また、人に見られるのを恥じて、手の甲で頻《しき》りに拭った。が、拭っても拭っても、涙は止まらなかった。彼は自分の不覚が腹立たしく、下を向いたまま廊下へ出ると、下駄をひっかけて庭へ下りて行った。六月の中旬のことで、庭の隅には丈の高い紅と白とのスウィートピイが美しく簇《むらが》り咲いていた。花の前に立って、三造は、しばらく涙の涸《かわ》くのを待った。

       六

 伯父の遺稿集の巻末につけた、お髯《ひげ》の伯父の跋《ばつ》によれば、死んだ伯父は「狷介《けんかい》ニシテ善《よ》ク罵リ、人ヲ仮《ゆる》ス能《あた》ハズ。人マタ因《よ》ツテ之ヲ仮スコトナシ。大抵視テ以テ狂トナス。遂ニ自ラ号シテ斗南狂夫トイフ。」とある。従って、その遺稿集は、『斗南存稾《となんそんこう》』と題されている。この『斗南存稾』を前にしながら、三造は、これを図書館へ持って行ったものか、どうかと頻りに躊躇している。(お髯の伯父から、これを帝大と一高の図書館へ納めるように、いいつけられているのである。)図書館へ持って行って寄贈を申し出る時、著者と自分との関係を聞かれることはないだろうか? その時「私の伯父の書いたものです」と、昂然と答えられるだろうか? 書物の内容の価値とか、著者の有名無名とかいうことでなしに、ただ、「自分の伯父の書いたものを、得々として自分が持って行く」という事の中に、何か、おしつけがましい、図々しさがあるような気がして、神経質の三造には、堪えられないのである。が、また、一方、伯父が文名|嘖々《さくさく》たる大家ででもあったなら、案外、自分は得意になって持って行くような軽薄児ではないか、とも考えられる。三造は色々に迷った。とにかく、こんな心遣《こころづかい》が多少病的なものであることは、彼も自分で気がついている。しかし、自己的な虚栄的なこういう気持を、別に、死んだ伯父に対して済まないとは考えない。ただ、この書の寄贈を彼に託した親戚や家人たちが、この気持を知ったら烈しく責めるだろうと思うのである。
 だが、結局彼は、それを図書館に納めることにした。生前、伯父に対してほとんど愛情を抱かなかった罪ほろぼしという気持も、少しは手伝ったのである。実際、近頃になっても伯父について思出すことといえば、大抵、伯父にとって意地の悪い事柄ばかりであった。死ぬ一月ばかり前に、伯父が遺言のようなものを予《あらかじ》め書いた。「勿葬、勿墳、勿碑。」(葬式を出すな。墓に埋めるな。碑を立てるな。)これを死後、新聞の死亡通知に出した時、「勿墳」が誤植で、「勿憤」になっていた。一生を焦躁と憤懣《ふんまん》との中に送った伯父の遺言が、
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