く反撥するのであろう。彼はこんなことを考えながら、書続けて行った。)
(三) 移り気
彼の感情も意志も、その儒教倫理(とばかりは言えない。その儒教道徳と、それからやや喰《は》み出した、彼の強烈な自己中心的な感情との混合体である。)への服従以外においては、質的にはすこぶる強烈であるが、時間的には甚だしく永続的でない。移り気なのである。
これには、彼の幼時からの書斎的俊敏が大いにあずかっている。彼が一生ついに何らのまとまった労作をも残し得なかったのはこの故である。決して彼が不遇なのでも何でもない。その自己の才能に対する無反省な過信はほとんど滑稽に近い。時に、それは失敗者の負惜《まけおし》みからの擬態とも取れた。若い者の前では、つとめて、新時代への理解を示そうとしながら、しかも、その物の見方の、どうにもならない頑冥《がんめい》さにおいて、宛然《えんぜん》一個のドン・キホーテだったのは悲惨なことであった。しかも、彼が記憶力や解釈的思索力(つまり東洋的悟性)において異常に優れており、かつ、その気質は最後まで、我儘《わがまま》な、だが没利害的な純粋を保っており、また、その気魄の烈しさが遥かに常人を超えていたことが一層彼を悲惨に見せるのである。それは、東洋がいまだ近代[#「近代」に傍点]の侵害を受ける以前の、或る一つのすぐれた精神の型の博物館的標本である。…………
(このような批判を心の中に繰返しながら、三造は、こう考えている自分自身の物の見方が、あまりに生温《なまぬる》い古臭いものであることに思い及ばないわけには行かなかった。伯父の一つの道への盲信を憐れむ(あるいは羨む)ことは、同時に自らの左顧右眄《さこうべん》的な生き方を表白することになるではないか。して見れば彼自らも、伯父と同様、新しい時代精神の予感だけはもちながら、結局、古い時代思潮から一歩も出られない滑稽な存在となるのでないか。(ただ、それは伯父と比べて、半世紀だけ時代をずらしたにすぎない。)伯父のようになるであろうと言った彼の従姉の予言があたることになるではないか。…………)
彼は少々忌々しくなって、文章を続ける気がしなくなり、今度は表のようなものをこしらえるつもりで、日記帖の真中に横に線を引き、上に、伯父から享《う》けたもの、と書き、下に、伯父と反対の点と書いた。そうして伯父と自分との類似や相違を其処に書き入れようとしたのである。
伯父から享けたものとしては、まず、その非論理的な傾向、気まぐれ、現実に疎い理想主義的な気質などが挙げられると、三造は考えた。穿《うが》ったような見方をするようでいて、実は大変に甘いお人好《ひとよ》しである点なども、その一つであろう。三造も時に他人《ひと》から記憶が良いと言われることがあるが、これも伯父から享けたものかも知れない。肉体的にいえば、伯父のはっきりした男性的な風貌に似なかったことは残念だったが、顱頂《ろちょう》の極めてまん[#「まん」に傍点]円《まる》な所(誰だって大体は円いに違いないが、案外でこぼこ[#「でこぼこ」に傍点]があったり、上が平らだったり、後《うしろ》が絶壁だったりするものだ。)だけは、確かに似ている。しかし、伯父との間に最も共通した気質は何だろう。あるいは、二人ともに、小動物、殊に猫を愛好する所がそれかも知れぬ、と、三造は気が付いた。一つの情景が今三造の眼の前に浮んで来る。何でも夏の夕方で、彼はまだ小学校の三年生位である。次第に暮れて行く庭の隅で、彼が小さなシャベルで土を掘っている側に、伯父が小刀で白木を削っている。二人が共に非常に可愛がっていた三毛猫が何処かで猫イラズでも喰べたらしく、その朝、外から帰って来ると、黄色い塊を吐いて、やがて死んでしまった。その墓を二人はこしらえているのである。土が掘れると、猫の死骸を埋め、丁寧に土をかけて、伯父がその上に、白木の印を立てる。黄色く暮れ残った空に蚊柱の廻る音を聞きながら、三造はその前にしゃがんで手を合わせる。伯父は彼の後に立って、手の土を払いながら、黙ってそれを見ている。
五
伯父はその晩ずっと睡り続けた。次の日の昼頃、ひょいと眼をあけたが、何も認めることが出来ないようであった。空《くう》をみつめた眼玉をぐるりと一廻転させると、すぐにまた、瞼を閉じた。そしてそのまま、微《かす》かな寝息を立てて、眠り続けた。
その晩八時頃、三造が風呂にはいっていると、すぐ外の廊下を食堂(洗足の伯父の家は半ば洋風になっていた)から、伯父の病室の方へバタバタ四、五人の急ぎ足のスリッパの音が聞えた。彼は「はっ」と思ったが、どうせ睡眠状態のままなのだから、と、そう考えて、身体を洗ってから、廊下へ出た。病室へはいると、昼間の姿勢のままにねている伯父を真中にして、その日、朝から
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