うことを言う伯父の病態に楽観的な気持を抱かせたし、また、宿のものの待遇の悪さをしきりに罵っているその手紙の口調からしても、伯父の元気の衰えてはいないらしいことが察せられたので、彼はその報知を大して気にもかけなかったのである。ところが更にそれから半月ほどして、今度は葉書で、簡単に、山では病が養えないから大阪へ――大阪には彼の従姉が(伯父からいえば姪だが)いた――行きたいのだが、今では身体がほとんど利かないから、大阪まで送ってもらいたい、老人の最後の頼みだと思って、是非すぐに大山に迎えに来てほしい、と書かれたのを受取った時、彼は全く当惑した。一体、そのような病人を大阪まで運んでいいものかどうか。それに、どうしてまあ、伯父は大阪へなど行く気になったものか。なるほどその大阪の従姉は子供の時から伯父には色々と世話になったのであるし、また従姉自身、人の面倒を見るのが好きな性質ではあるが、何といってもそれは、従姉の夫の家ではないか。おまけに、その姪の夫を伯父は常々、馬鹿だ(ということは、つまりこの場合漢学の素養がないと言うことになるのであるが)云《い》い云《い》いしていたのである。その男の所へ行こうなどと言い出す。これは少し変だぞと三造は考えた。前の手紙には驚かなかった彼も、この伯父の大阪行の決心の中に、伯父の病気の重態さの動かすことのできない証拠を見たように思って、少からずあわてたのである。が、それにしても、とにかく大阪まで行かせることは何としてもいけないと思った。病気を養うのならば、何も大阪まで行かなくとも、自分の弟が――三造にとってはやはりこれも伯父だが――洗足にいるのである。三造はすぐにその葉書をもって洗足へ出かけた。洗足の伯父も彼と同意見であった。自分の家へ来るように勧めるために、その伯父は翌朝大山へ行った。が、午後になって手を空しゅうして帰って来た。どうしても(理窟なしに)大阪へ行くと言ってきかないのだそうである。もう、ああ言い出しては仕方がないから、と言って、洗足の伯父は彼に大阪行の旅費を与えた。

 翌日、三造は小田急で大山へ行った。その神主の家はすぐ分った。通されて二階に上ると、伯父は座敷の真中の蒲団の上に起きて、古ぼけた脇息《きょうそく》に凭《もた》れて坐っていた。伯父は三造を見ると非常に――滅多に見せたことのないほどの――嬉しそうな顔をした。それが何だか三造を不安にした。荷物はすっかりととのえられていた。立つ際になって、封筒に入れて置いた紙幣が一枚、その封筒ごと失《な》くなったといい出した。伯父のなくしものはいつものことである。その時もすぐに、その封筒が部屋のすみの新聞紙の下から出て来た。が、それは半分破れて取れていて、中には、これもやはり破れた十円紙幣が半分だけはいっていた。伯父が反故《ほご》とまちがえて自分で破って捨てたものであることは明らかであった。他の半分は、だが、探しても探しても出て来なかった。伯父は捜索を断念しようとしたけれども、それを聞いて一緒に探しはじめたその神主の家人たちが承知しなかった。探し出して、くっつければ、結構使えるのだからと、そのお内儀《かみ》さんはそう言って、家の裏のごみ[#「ごみ」に傍点]捨場や、その側の竹藪まで、子供たちを探しにやった。「見つかるもんか。馬鹿な。」と伯父は、露骨に不快な顔をして、まるで他人事《ひとごと》のように、彼らの騒ぎ方を罵るのであった。自分自身の失策に対する腹立たしさと、更に、その失策を誇張するかのような仰々しい彼らの騒ぎぶりと、また、自分の金銭に対する恬淡《てんたん》さを彼らが全然理解していないことに対する憤懣《ふんまん》とで、すっかり機嫌を悪くしたまま、伯父はその家を出た。麓《ふもと》までは、三造にも初めての山駕籠《やまかご》であった。あまり強そうにも見えない三十前後の男が前後に一人ずつ、杖をもって時々肩を換えながら、石段路を歩きにくそうに下って行った。三造はそのあとについて歩いた。下り切ってしまうと今度は人力車に乗った。松田の駅に着いた時はもう夕方になっていた。

 松田駅の待合室で次の下りを待合せている間、伯父は色々解らないことを言出《いいだ》して三造を弱らせた。その時伯父は珍しく旅行案内を持っていて、(宿の神主が気を利かせて荷物の中に入れておいたものであろう)それで時間を繰りながら、「今、立てば大阪は明日の十時になる」といった。ところが三造が見ると、どうしても七時になっている。そういうと伯父はひどく腹を立てて、よく見ろといった。いくら見ても同じであった。伯父が線を間違えて見ていたのである。三造も少し不愉快になってきたので、赤鉛筆でハッキリ線をひいて伯父の見間違いを説明した。すると伯父は返事をしないで、子供のようにむっ[#「むっ」に傍点]としたまま横を向い
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