てしまった。それからしばらくして、今度は、夏蜜柑《なつみかん》を買って来いと言い出した。三造の買ってきた夏蜜柑はうまくなかった。「夏蜜柑の択び方も知らん」と言ってまじめになって小言《こごと》をいいながら、それでも伯父はムシャムシャ喰べた。そして三造にも勧めた。砂糖がなくてはと酸いものの嫌いな三造が言うと「そんな贅沢なことでどうする。今の若いものは」と再び小言が始まった。ふだんは、こんな事を言い出してはますます若い者に嗤《わら》われることを知って、自ら抑えるようにしているのだが、病気のためにそんな顧慮も忘れてしまったらしい。三造も腹が立ち、ハッキリと苦い顔を見せて、いつまでも夏蜜柑の黄色く白っぽい房を、喰べずに掌に載せたまま、強情に押黙っていた。
 しかし、いよいよ切符を切り構内に入って露天のプラットフォオムのベンチに、トランクにもたれ、毛布をしいて、ほっと腰を下した伯父を見た時、――沈んで間もない初夏の空は妙に白々とした明るさであった、――三造は、はっきりと、伯父の死の近づいたことを感じさせられた。円い形の良い頭蓋骨が黄色い薄い皮膚の下にはっきり想像され、凹《くぼ》んだ眼は静かに閉じ、顴骨《かんこつ》から下がぐっと落ちこんで、先端の黄色くなった白髯が大分伸びている。そして右手はキチンと袴の膝の上に、左手は胸からふところへ差し込んだまま、眠ったように腰掛けている伯父の姿のどこかに、静かな暗い気がまといついているような気がするのであった。しかし、その死の予感は、三造をうろたえさせもしなければ、また伯父に対する最後の愛着を感じさせもしなかった。妙におちついた澄んだ気持で、彼は、ほの白い薄明の中に浮び上った伯父の顔を、――その顔に漂っている、追いやることのできない不思議な静かな影を――見詰めるのであった。その影に抵抗することは、とてもできない。それは、どうすることもできない定まったことなのだ、と、そういう風な圧迫されるような気持を何とはなしに感じながら。

 汽車の中は、場所はゆっくり取れたけれども、あいにくそれが手洗所の近くであった。伯父は、それをひどく気にして、他の乗客がその扉をあけっぱなしにすると言っては、遠慮なく罵った。三造は毛布を敷き、空気枕をふくらして、伯父の寝やすいようにしつらえた。伯父は窓硝子の方に背をもたせ、枕をあてがって、足を伸ばし、眼をつぶった。茶っぽい光の列車の電燈の下では、伯父の顔にももう先刻の妙な「気」はすっかり払い落されてしまっていた。ただ、そのやせた顔の皺のより工合や、また時々のひきつるような筋の動きで、その浅い睡りの中でも伯父が苦痛をこらえていることが分り、それが向いあっている三造に落ちつかない気持を与えた。伯父の苦しそうな寐顔を見ながら、しかし、彼は、かえって、この伯父のかつての滑稽な非常識な失策などを思い出していた。伯父が銭湯へ行ったところ、女湯とあるのを読み、そこには男湯はないものと思って、帰って来た話。また、三造の妹に、駄菓子屋へ行って、キャラメルを五円買って与えた話。そんなことを彼はゴトゴト揺られながら思い出していた。その三造の妹は二年前に四歳で死んだ。それを大変悲しんだ伯父はその時こんな詩を作った。

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毎我出門挽吾衣 翁々此去復何時
今日睦児出門去 千年万年終不帰
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 睦子とはその妹の名である。三造には漢詩の巧拙は分らなかった。従って伯父の詩で記憶しているのもほとんどないのであるが、今、次のようなのがあったのを、ひょっと思い出した。その冗談めいた自嘲の調子が彼の注意を惹いたものであろうか。

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悪詩悪筆 自欺欺人 億千万劫 不免蛇身
[#ここで字下げ終わり]

 口の中で、しばらくこれを繰返しながら、三造は自然に不快な寒けを感じてきた。何故か知らぬが、詩の全体の意味からはまるで遊離した「不免蛇身」という言葉だけが、三造を妙におびやかしたのである。彼自身も、この伯父のように、一生何ら為すなく、自嘲の中に終らねばならぬかも知れぬというような予感からではなかった。それはもっと会体のしれない、気味の悪い不快さであった。眼をつぶったまま揺られつづけている伯父を、暗い車燈の下に眺めながら、彼は「この世界で冗談にいったことも別の世界では決して冗談ではなくなるのだ」という気がした。(そのくせ、彼はふだん決して他の世界の存在など信じてはいないのだが)すると、伯父の詩の蛇身[#「蛇身」に傍点]という言葉が、蛇身[#「蛇身」に傍点]という文字がそのまま生きてきて、グニャグニャと身をくねらせて車室の空気の中を匍《は》いまわっているような気持さえしてくるのであった。

 翌朝、大阪駅から乗ったタクシイの中で――従姉の家は八尾にあった――三造はそ
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