れども、袴《はかま》はキチンと結ばれ、とおった鼻筋とはっきり見ひらかれた眼とは彼を上品な老人に見せている。顔の肌も洗われたばかりで、老人らしい汚点《しみ》もなく黄色く光って見える。二人はまた火鉢の側に坐りこんで、しばらく話をした。彼らの親戚たちの噂話。その頃|支那《シナ》からやって来た天才的な少年棋士のこと。新聞将棋のこと。日本の漢詩人のこと。支那の政局のこと。その中に何かの拍子で共産主義のことが出た時、伯父は、『資本論』の原本をその中に誰かに借りて来てくれ、と言い出した。また始まったなと彼は思った。このような実行力を伴わない東洋壮士的豪語がいつも彼を腹立たせるのである。なに、マルクスが正しい独乙《ドイツ》語さえ書いていれば俺にだって分るさ、と、彼の顔色を見たのか、伯父はそんなことまで附け加えた。彼は伯父が早くこの話を切上げてくれるように、と念じながら、黙って火箸で灰に字を書いているより外はなかった。その中に突然伯父は、急に気が付いたような様子で「傘を買って来てくれ。」と言う。降っているんですか、と聞きながら障子をあけて外を見ようとすると、今は降ってはいないけれども、とにかく要《い》るものだからと伯父は言った。そうして蟇口《がまぐち》から五十銭銀貨を一枚出して、何処《どこ》とかで、五十銭の蛇の目を見たから、そういうのを一本買って来てもらいたいといって、変な顔をしている三造にそれを渡すのであった。三造は女中を呼び、自分の財布から、そっと五十銭銀貨二枚を出して、それに附加え、買って来るように頼んだ。女中はすぐに表へ出て行ったが、やがて細目の紺の蛇の目を持って帰って来た。伯父はそれを、いきなり狭い四畳半で拡げて見て、なるほど、東京は近頃物が安いと言った。
間もなく伯父は、もう大山へ行くのだと言い出した。何時の汽車ですと、あやうく聞こうとした彼は、伯父が決して汽車の時間を調べない人間だったことを、ひょいと思い出した。伯父は、どんな大旅行をする時でも、時計など持ったことがないのである。
彼は東京駅まで送るつもりで、制服に着換え始めた。伯父はそれが待ちきれないで、例の大きなバスケットを提げて部屋の外へ出ると、急いで階段を下りて行った。と、先刻《さっき》の蛇の目を忘れたことに気がついたらしく、階下《した》から「三造さん。傘! 傘!」と大きな声がした。彼は面喰《めんくら》った。いまだかつて伯父は彼の事を「さん」づけにして呼んだことはなかったはずである。いつも三造、三造の呼棄《よびすて》であった。彼は、その伯父の呼方の変化に、伯父の気力の衰えを見たというよりは、何かしら伯父の精神状態が異常になっているのではないかというような不安が感じられて、ギョッとしながら、傘をもって階段を下りて行った。
表へ出ると伯父は円タクを呼んだ。どうせ文求堂に置いてある荷物も持って行くのだからと伯父は言いわけのような調子で言った。支那風の扉をつけた文求堂の裏口で車を停めると、中から店の人が、がんじがらめ[#「がんじがらめ」に傍点]にした行李《こうり》を一つ車の中へ運んでくれた。
車が東京駅に近づいた頃、伯父は彼に向って何か早口で言った。――伯父は非常に聴き取りにくい早弁で、おまけに、それを聞き返されるのが大嫌いであった。――その時も三造は、伯父の言ったことがよくわからなかったので聞えないという風をして伯父の顔を見返した。伯父はいらだたしそうに、今度は、右手は人差指一本、左手は人差指と中指をそろえて、あげて見せた。この禅問答のような仕草は、三造にはますます何のことやら分らなかったけれど、とにかく無意味にうなずいて見せた。伯父はやっと気がすんだような顔をして硝子窓の外に眼を外らせた。駅について助手に荷物を運ばせている時、ふと三造は、伯父が運転手に何も聞かずに一円二十銭――たしかに、それは一円二十銭――払っているのを見た。三造は驚いた。(昭和五年当時、円タクは市内五十銭に決っていたものだ。)やっと、さっきの指の意味が分った。右の一本は一円――円タクというからには一円にきまっていると伯父は考えたのだ――で、左の二本は二十銭だったのである。彼も今更とめるわけにも行かず微笑《わら》いながら伯父の動作を眺めていた。三造などに聞かなくとも、この大都会の交通機関の習慣位は、ちゃんと心得ているぞと言った風な、いかにも満足げに見える伯父の顔つきを。恐らく、伯父は、割増一人ごとに二十銭と書いてあるのを何処かで見たのでもあろうか。
それから一月ほどたって、大山から手紙が来た。身体の工合がますますよくないこと、一日に何回も腸出血があると言うことなどが認《したた》められていた。が、「瀕死」とか「死期が近づいた」とか言う字句が彼に何か実感の伴わないものを感じさせると同時に、かえってそうい
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