ちや弟子たちの――援助を受けていることが分った時、三造は、まず、この点に向って、心の中で伯父を非難した。自分で一人前の生活もできないのに、徒《いたず》らに人を罵るなぞは、あまり感心できないと、彼は考えたのである。あとから考えると、これらの非難は多く、自己に類似した精神の型に対する彼自身の反射的反撥から生れたもののようでもあった。とにかく、彼は、自分がそれに似ているといわれるこの伯父の精神的特徴の一つ一つに向って、一々意地の悪い批判の眼を向けようとしていた。それは確かに一種の自己嫌悪であった。高等学校時代の或る時期の彼の努力は、この伯父の精神と彼自身の精神とに共通するいくつかの厭《いと》うべき特質を克服することに注がれていた。その彼の意図は不当ではなかったにもかかわらず、なお、当時の彼の、伯父に対する見方は、不充分でもあり、また、誤ってもいたようである。即《すなわ》ち、伯父の奇矯な言動は、それが青年の三造にとって滑稽であり、いやみ[#「いやみ」に傍点]であると同じ程度に、彼よりも半世紀前に生れた伯父自身にとっては、極めて自然であり、純粋なものであるということが、彼には全身的に理解できなかったのである。伯父は、いってみれば、昔風の漢学者気質と、狂熱的な国士気質との混淆《こんこう》した精神――東洋からも次第にその影を消して行こうとするこういう型の、彼の知る限りではその最も純粋な最後の人たちの一人なのであった。このことが、その頃の彼には、概念的にしか、つまり半分しか呑みこめなかったのである。

       二

 その年の二月、高等学校の記念祭の頃、本郷の彼の下宿へ、伯父から葉書が来た。利根川べりの田舎からであった。当分ここにいるから、土曜から日曜へかけてでも、将棋を差しに来ないか。鶏位なら御馳走するから、というのである。それは、三造の高等学校を卒業する年で、ちょうどその少し前に、彼は、学校で蹴球(アソシエーション)をしていて、顔を蹴られ、顔中|繃帯《ほうたい》をして病院へ通っていたのであった。実際間の抜けた話ではあるが、上から落ちてくる球をヘッディングしようとして、ちょっと頭をさげた途端に、その同じ球を狙った足に、下から眼のあたりをしたたか蹴られたのである。眼鏡の硝子《ガラス》は微塵《みじん》に砕けて、瞬間はっ[#「はっ」に傍点]とつぶった彼の眼の裏には赤黒い渦のような
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