ようにならなければいいが、と、口癖のようにいっていた。その言葉が部分的には当っていることを、三造も認めないわけには行かなかった。そして、それだけ、彼には、伯父の落著《おちつき》のない性行が――それが自分に最も多く伝わっているらしい所の――苦々しく思われるのであった。その伯父のすぐ下の弟――つまり三造にとっては斉《ひと》しく伯父であるが――の、極端に何も求むる所のない、落著いた学究的態度の方が、彼には遥かに好もしくうつった。その二番目の伯父は、そのようにして古代文字などを研究しながら、別にその研究の結果を世に問おうとするでもなく、東京の真中にいながら、髪を牛若丸のように結い、二尺近くも白髯《はくぜん》を貯えて隠者のように暮していた。その「お髯《ひげ》の伯父」(甥《おい》たちはそう呼んでいた。)の物静かさに対して、上の伯父の狂躁性を帯びた峻厳が、彼には、大人げなく見えたのである。似ているといわれるたびに彼は、いつも、いやな思いをしていた。伯父は幼時から非常な秀才であったという。六歳にして書を読み、十三歳にして漢詩漢文を能《よ》くしたというから儒学的な俊才であったには違いない。にもかかわらず、一生、何らのまとまった仕事もせず、志を得ないで、世を罵り人を罵りながら死んで行ったのである。前の遺稿の序文にもあったように、伯父は妻をめとらなかった。それが何に原因するものであるかを三造は知らない。伯父はまた常に、三造には無目的としか思えないような旅行を繰返していた。支那《シナ》には長く渡っていた。それは伯父自身がいう如く、国事を憂えて、というよりも、単に、そのロマンティシズムにエグゾティシズムにそそられたためといった方がいいのではないかと、高等学校時代の三造は考えていた。この彷浪者魂は彼の一生に絶えずつきまとっていたように見える。三造の知っているかぎり伯父は常に居をかえたり旅行したりしていたようであった。この彷徨《ほうこう》を好む気質が自分にも甚だ多く伝わっていることを、三造は時々強く感じなければならなかった。ただ、伯父の生活の経済的方面は久しく彼の謎であった。伯父はかつて、『支那分割の運命』なる本を出したことがあった。が、そんな売れない本から印税がはいるはずはなかった。大分後になって、(それは伯父の晩年になってからのことであるが、)伯父は経済的にはほとんど全部他人の――友人や弟た
前へ
次へ
全25ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング