行ってしまっていた」といい、生前の伯父を知っている者には、如何《いか》にもその風貌を彷彿《ほうふつ》させる描写なのだ。三造はこれを読みながら、微笑せずにはいられなかった。彼は、この書物を、大学と高等学校の図書館へ納めに行くように、家人から頼まれていた。けれども、自分の伯父の著書を――それも全然無名の一漢詩客に過ぎなかった伯父の詩文集を、堂々と図書館へ持込むことについて、多分の恥ずかしさを覚えないわけに行かなかった。三造は躊躇《ちゅうちょ》を重ねて、容易に持って行かなかった。そして、毎日机の上でひろげては繰返して眺めていた。読んで行く中《うち》に、狷介《けんかい》にして善く罵《ののし》り、人をゆるすことを知らなかった伯父の姿が鮮やかに浮かんで来るのである。羅振玉氏の序文にはまたいう。
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「聞ク、君潔癖アリ。終身婦人ヲ近ヅケズ。遺命ニ、吾レ死スルノ後、速ヤカニ火化ヲ行ヒ骨灰ヲ太平洋ニ散ゼヨ。マサニ鬼雄トナツテ、異日兵ヲ以テ吾ガ国ニ臨ムモノアラバ、神風トナツテ之ヲ禦《ふせ》グベシト。家人|謹《つつ》シンデ、ソノ言ニ遵《したが》フ。…………」
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これは凡《すべ》て事実であった。伯父の骨は、親戚の一人が汽船の上から、遺命通り、熊野灘に投じたのである。伯父は、そうして鯱《さかまた》か何かになってアメリカの軍艦を喰べてしまうつもりであったのである。
他人に在っては気障《きざ》や滑稽《こっけい》に見えるこのような事が、(このような遺言や、その他、数々の奇行奇言などが)あとで考えて見れば滑稽ではあっても、伯父と面接している場合には、極めて似付かわしくさえ見えるような、そのような老人で伯父はあった。それでも、高等学校の時分、三造には、この伯父のこうした時代離れのした厳格さが、甚だ気障な厭味《いやみ》なものに見えた。伯父が、自分の魂の底から、少しも己《おのれ》を欺くことなしに、それを正しいと信じてそのような言行をしているとは、到底彼には信じられなかったのである。其処《そこ》に、彼と伯父との間に、どうにもならない溝があった。事実彼と伯父との間にはちょうど半世紀の年齢の隔たりがあった。死んだ時、伯父は七十二で、三造はその時二十二であった。
親戚の多くが、三造の気質を伯父に似ているといった。殊に年上の従姉《いとこ》の一人は、彼が年をとって伯父の
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