、それに対する自分の復讐が出来たような嬉しさを感じたのであった。
赤十字病院の病室には、洗足の伯父と渋谷の伯父(これは、例のお髯の伯父と洗足の伯父の間の伯父であった。その頃遠く大連にいた三造の父は、十人兄弟の七番目であった。)とが来ていた。もちろん、附添や看護婦もいた。三造がはいって行くと、伯父は寝顔を此方へ向けて、真先に、ちょうどその頃神宮外苑で行われていた極東オリンピックのことを彼に訊ねた。そして、陸上競技で支那《シナ》が依然無得点であることを彼の口から確かめると、我が意を得たというような調子で、「こういうような事でも、やはり支那人は徹底的に懲《こら》して置く必要がある」と呟《つぶや》いた。それから、その日の新聞の支那時局に関する所を三造に読ませて、じっと聞いていた。伯父は、人間の好悪が甚だしく、気に入らない者には新聞も読ませないのである。
次に三造が受取った伯父についての報知は、いよいよ胃癌《いがん》で到底助かる見込の無いことを伯父自身に知らせたということ――それは、もうずっと以前から分っていたことだが、病人の請うままにそれを告げてよいか、どうかを医者が親戚たちに計った時、伯父の平生の気質から推して、本当のことをはっきり言ってしまった方がかえって落著《おちつ》いた綺麗な往生が遂げられるだろうと、一同が答えたのであるという。――そして、どうせ助からないなら病院よりは、というので、洗足の家へ引移ったということであった。なお、その親戚の一人からの手紙には、「助かる見込のない事を宣告された時の伯父は、実に従容《しょうよう》としていて、顔色一つ変えなかった」と附加えてあった。英雄の最後でも画くようなそういう書きっぷりにはいささか辟易したが、とにかく三造はすぐに洗足の伯父の家へ行った。そうして、ずっと其処に寝泊りして最後まで附添うことにした。
病気が進むにつれ、人に対する好悪がますますひどくなり側に附添うことを許されるのは、三造の他四、五人しかいなかった。その四、五人にも、伯父は絶えず何か小言を言続けていた。田舎からわざわざ見舞に来た三造の伯母――伯父の妹――などは、何か気に入らぬことがあるとて、病室へも通されなかった。三造にとって一番たまらないのは、伯父が看護婦を罵ることであった。看護婦には、伯父の低声の早口が聞きとれないのである。それを伯父は、少しも言うことを
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