聞かぬ女だ、といって罵った。或《ある》時は、三造に向って看護婦の面前で、「看護婦を殴れ。殴っても構わん」などと、憤怒に堪えかねた眼付で、しわ嗄《が》れた声を絞りながら叫んだ。利《き》かない上体を、心持、枕から浮かすように務めながら目をけわしくして、衰えた体力を無理にふりしぼるように罵っている伯父の姿は全く悲惨であった。そういう時、最初の看護婦は、――その女は二日ほどいたが堪えられずに帰ってしまった――後を向いて泣出し、二度目の看護婦は不貞腐《ふてくさ》れて外《そ》っ方《ぽ》を向いていた。三造は、どうにもやり切れぬ傷ましい気持になりながら、何とも手の下しようが無かった。
 病人の苦痛は極めて激しいもののようであった。食物という食物は、まるで咽喉《のど》に通らないのである。「天ぷらが喰べたい」と伯父が言出した。何処のが良い? と聞くと「はしぜん[#「はしぜん」に傍点]」だという。親戚の一人が急いで新橋まで行って買って来た。が、ほんの小指の先ほど喰べると、もうすぐに吐出してしまった。まる三週間近く、水の他何にも摂《と》れないので、まるで生きながら餓鬼道に堕ちたようなものであった。例の気象で、伯父はそれを、目をつぶってじっと堪《こら》えようとするのである。時として、堪《こら》えに堪えた気力の隙から、かすかな呻《うめ》きが洩れる。瞑《つむ》った眼の周囲に苦しそうな深い皺《しわ》を寄せ、口を堅く閉じ、じっとしていられずに、大きな枕の中で頭をじりじり動かしている。身体には、もうほんの少しの肉も残されていない。意識が明瞭なので、それだけ苦痛が激しいのである。筋だらけの両の手の指を硬くこわばらせ、その指先で、寝衣の襟《えり》から出たこつこつ[#「こつこつ」に傍点]の咽喉骨や胸骨のあたりを小刻みに顫《ふる》えながら押える。その胸の辺が呼吸と共に力なく上下するのを見ていると、三造にも伯父の肉体の苦痛が蔽《おお》いかぶさって来るような気がした。しまいに、伯父は、薬で殺してくれと言出した。医者は、それは出来ないと言った。だが、苦痛を軽くするために、死ぬまで、薬で睡眠状態を持続させて置くことは許されるだろう、と附加えた。結局、その手段が採られることになった。いよいよその薬をのむという前に、三造は伯父に呼ばれた。側には、ほかに伯父の従弟に当る男と、及び、伯父の五十年来の友人であり弟子でもある老人
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