、或日ひょっこりマルクープ老人が訪ねて来た。私が帰って来たことを人から聞いて直ぐにやって来たのだと言った。ひどい窶《やつ》れようである。瞼が両眼に蔽いかぶさっているのは以前と変りないが、歯でも抜けたように頬が落ち込んで、背中の曲り様も前より甚だしく、それに何よりも驚かされたのは、声が非常にかすれて了って内証話のように聞えることであった。全体の感じが二年前より十も歳をとったような工合《ぐあい》である。以前の懐中時計の一件を忘れた訳ではなかったが、此の老い込んだ姿を前にしては、流石《さすが》にそれは言出せなかった。どうした、大変弱ってるようじゃないか、と言えば、病気が悪いと答え、実は其の事でお願があるのですと言った。老人は半年程前から酷く弱って来、咽喉《のど》が詰まるようで呼吸が苦しいので、パラオ病院に通っている。しかし、一向に治りそうもない。いっそパラオ病院をやめてレンゲさんの所へ行ったらどうだろうと思うのだが、と老人は言った。レンゲというのは独逸《ドイツ》人で長くオギワル村に住んでいる宣教師だが、中々教養のある男で、それに相当医薬の道にも通じていたらしい。時々島民の病人を診ては薬を与え
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