く彼は喜んだ様子であった。聞きとりにくい声で繰返し繰返し礼を述べ、曾《かつ》て私がどんな多額の金をやった時にも見せなかった程幾度も幾度も頭を下げた。何故こんな詰まらない事をこんなに有難がるのか、却《かえ》って此方《こちら》が面喰って了った位である。
 その後暫く私はマルクープの消息を聞かなかった。

 三月ばかりも経った頃であったろうか。見たことのない土民青年が一人、私を訪ねて来た。マルクープに頼まれて来たものだと言い、手に提げた椰子の葉のバスケットを私の前に差出した。椰子の葉の粗い編目の間から、一羽の牝※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《めんどり》が首を出してククーと鳴いた。此の※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《にわとり》を届けるように頼まれたのだという。マルクープは其の後どうしている? と問えば、十日ばかり前に死にましたという返事である。欣《よろこ》んでオギワルのレンゲの所へ治療を受けに行ったが、病気は少しもよくならず、到頭その村の親戚の家で死んだということであった。何故※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]を私などへ贈るように遺言したのだろうかと聞いても、若者はブッキラボウに、知らぬ、自分は唯故人のいいつけ通りに事を運んだ迄だ、と答えて、さっさと帰って行った。
 二三日後の或夕方、又一人の別の土民青年が私の家の裏口からはいって来た。無愛想な顔をして私の前に立つと、驚いたことに、此の男も亦※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の入った椰子の葉のバスケットを差出した。マルクープ爺さんから、と言っただけで、怒った様な顔をした其の若者はくるりと後を向いて、又裏口から出て行った。
 直ぐ翌日、又一人来た。今度は前の二人より余程愛想のいい・年齢も少しは上らしい男である。マルクープの親戚だといい、死んだ爺さんに頼まれましたとて、椰子バスケットを差出した。今度はもう驚きはせぬ。又、※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]であろう。そうだ。※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]であった。何故こんな贈り物を私が受けるのかと聞くと、爺さんが生前先生には大変お世話になったと言っていましたから、と言った。何故三羽も――それも三回別々の人間に持たせてよこしたのか、という私の疑問に就いては、其の島民は次の様な説明を与えた。恐らく、一人だけに頼んだのでは、猫婆《ねこばば》される懼《おそれ》が充分にある故、老人は万全を期して三人に同じ事を委嘱したのであろうと。「島民の中には約束を守らぬ者が多いですから」というのが、最後に其の島民の附加えた言葉である。
 島民の生活に於て※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]が如何に大切なものとされているかを熟知している私は、三羽の生きた牝※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]を前にして、少からず感動した。しかし、それにしても、死んだ爺さんは一体院長に斡旋《あっせん》した私の親切(もしもそれが親切といえるならばだが)に対して報いたのだろうか。それとも、嘗て私の時計を失敬したことに対する謝罪のつもりだろうか。いやいや、あんな昔のことを彼が今迄憶えている筈が無い。憶えていたにしても、其の償いのつもりならば、当の時計を返してよこせばいいのに、あのウォルサムは一体どうしたのであろうか。いや、あの時計自体よりも、あの時計の事件によって私の心象に残された彼の奸悪さと、今の此の※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の贈り物とをどう調和させて考えればいいのだろう。人間は死ぬ時には善良になるものだ、とか、人間の性情は一定不変のものではなく同じものが時に良く時に悪くなるのだ、とかいう説明は、私を殆ど満足させない。その不満は、実際にあの爺さんの声、風貌、動作の一つ一つを知りつくして、さて最後に、それ等からは、凡そ期待されない此の三羽の牝※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]にぶつかった私一人だけの感ずるものなのかも知れない。そうして恐らくは、「人間は」というのではなしに、「南海の人間は」という説明を私は求めているのでもあろう。それは兎も角として、南海の人間はまだまだ私などにはどれ程も分っていないのだという感を一入《ひとしお》深くしたことであった。



底本:「中島敦全集 2」ちくま文庫、筑摩書房
   1993(平成5)年3月24日第1刷発行
   2003(平成15)年3月20日第6刷発行
※ファイル冒頭の作品名、著者名等は、XHTMLファイルにおける外字画像化の対象外としています。そこで同ファイルでの視認性を考慮して、表題に用いられている「※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]には異体字の「鶏」をそえました。 
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振り
前へ 次へ
全6ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング