。それに対して私は、あとで考えて見て可笑しく思った程むき[#「むき」に傍点]になって怒鳴り立てた。老人は最早瞼をつまみ上げることも薄笑いを浮かべることも止めて、神妙に、というより呆気《あっけ》にとられたように、私の前に突立っていた。よせばいいのに、私は斯んな事まで言って了ったらしい。金が欲しさに親しい友人迄裏切るような下劣な奴に、もう私の仕事は頼もうと思わぬと。その他何やかや大きな声で私は彼を叱り付けたようである。暫くしてひょいと気が付くと、老人は何時か石の様な無表情さになっており、私の声も聞かなければ私の存在をも認めていない様子である。先程述べたあの不思議な状態、凡《すべ》ての感覚に蓋《ふた》をした・外界との完全な絶縁状態に陥っていたのである。私は驚いたが今更急に折れて機嫌をとる訳にも行かない。それに今となっては、何を言おうが何をしようが、凡てを閉じ円くなって武装した穿山甲《アルマジロ》の様に、彼は何ものをも知覚しないであろう。
沈黙の半時間の後、ふと我に返ったように老人は身を動かし、すうっと私の部屋から出て行った。
一時間ばかりして、私は、先刻――老人が来る前に確か机の上に置いた筈の懐中時計が見えなくなっているのに気が付いた。部屋中探したが見当らぬ。服のポケットにも無い。父親譲りの古いウォルサムもので、潮気と暑気とのために懐中時計の狂い勝ちな南洋にあっても、容易に狂いを見せない上等品である。以前マルクープが此の時計を、殊に其の銀の鎖を大変珍しがって、手に取ってはおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]にしていたことのあったのを、私は思い出した。私は直ぐに表へ出て彼の小舎を訪ねて行った。小舎の中には誰もいなかった。(彼は独り者なのである。)それから二三日続けて毎日寄って見たが、何時も小舎は空っぽである。近処の島民に聞くと、二日程前|本島《ほんとう》の何処とかへ行くと言って出掛けたきり帰って来ないのだという。
爾後《じご》、マルクープ老人は再び私の前に現れなかった。
それから二月程して、私は東の島々――中央カロリンからマーシャルへ掛けての長期に亘《わた》る土俗調査に出掛けた。調査は約二ヶ年を要した。
二年経って再びパラオに戻って来た私は、コロールの町に著しく家々が殖えたことに驚き、島民等が大変に如才無く狡くなって来たように感じた。
パラオへ帰って一月も経った頃、或日ひょっこりマルクープ老人が訪ねて来た。私が帰って来たことを人から聞いて直ぐにやって来たのだと言った。ひどい窶《やつ》れようである。瞼が両眼に蔽いかぶさっているのは以前と変りないが、歯でも抜けたように頬が落ち込んで、背中の曲り様も前より甚だしく、それに何よりも驚かされたのは、声が非常にかすれて了って内証話のように聞えることであった。全体の感じが二年前より十も歳をとったような工合《ぐあい》である。以前の懐中時計の一件を忘れた訳ではなかったが、此の老い込んだ姿を前にしては、流石《さすが》にそれは言出せなかった。どうした、大変弱ってるようじゃないか、と言えば、病気が悪いと答え、実は其の事でお願があるのですと言った。老人は半年程前から酷く弱って来、咽喉《のど》が詰まるようで呼吸が苦しいので、パラオ病院に通っている。しかし、一向に治りそうもない。いっそパラオ病院をやめてレンゲさんの所へ行ったらどうだろうと思うのだが、と老人は言った。レンゲというのは独逸《ドイツ》人で長くオギワル村に住んでいる宣教師だが、中々教養のある男で、それに相当医薬の道にも通じていたらしい。時々島民の病人を診ては薬を与えている中に、其の評判がパラオ土民の間に高くなり、パラオ病院よりも良く治ると本気で信じている島民も少くなかった。マルクープ老人はパラオ病院に見切をつけて、此のレンゲ師の所へ診て貰いに行きたいのである。「しかし」と爺さんは言う。「パラオ病院は役所の病院だから、勝手に其処をやめてレンゲさんの所へ行ったら、院長さんにも怒られるし、警務の人にも怒られる。(まさかそんな事はあるまいと私は笑ったが、爺さんは頑固にそう信じていた)それで先生は(と私のことを言って)院長さんとコンパニイ(友達)だから、どうか院長さんの所へ行って巧く話して、私がレンゲさんの所へ行くことを許して貰って下さい」と。嗄《しわが》れた声でそれを言う態度が如何《いか》にも哀願的で、又瀕死の老人といった印象を与えたので、私も其の莫迦《ばか》げた依頼を引受けない訳に行かなかった。
院長の所へ行って話して見ると、あれはもう喉頭癌とか喉頭結核とかで(どちらだか今は忘れた)到底助かる見込は無いのだから、レンゲの所へ行くなり何なり、もう本人の好きなようにさせた方がよかろうという。
院長の許しがあった旨を翌日マルクープ老人に伝えてやると、ひど
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