いた。哀れなのはギラ・コシサンである。妻の口舌と腕力とによる日毎の責苦の外に、斯かる動かし難い証拠を前にして、彼は、本当に妻が正しく己が不正なのかも知れぬという良心的な懐疑に迄苦しまねばならなかった。偶然が彼に恵まなかったなら、彼は日々の重みのために押潰されて了ったかも知れぬ。
その頃パラオの島々にはモゴルと呼ばれる制度があった。男子組合《ヘルデベヘル》の共同家屋《ア・バイ》に未婚の女が泊り込んで、炊事をする傍ら娼婦の様な仕事をするのである。其の女は必ず他部落から来る。自発的に来る場合もあり、敗戦の結果強制的に出させられることもある。
ギラ・コシサンの住んでいるガクラオの共同家屋《ア・バイ》に偶々《たまたま》グレパン部落の女がモゴルに来た。名をリメイといって非常な美人である。
ギラ・コシサンが初めて此の女をア・バイの裏の炊事場で見た時、彼は茫然として暫く佇立《ちょりつ》した。その女の黒檀彫《こくたんぼり》の古い神像のような美に打たれたばかりではない。何か運命的な予感が――此の女によってのみ自分は現在の女房の圧制から免れられるかも知れぬという・哀れにも甚だ打算的な予感がしたのである
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