無い家に近附いた。妻に近附くのが、唯何となく怖かったのである。
猫のように闇中を見通す未開人の眼で彼がそうっと家の中を窺った時、彼は其処《そこ》に一組の男女の姿を見付けた。男は誰か判らないが、女がエビルであることだけは間違いない。瞬間、ギラ・コシサンは、ほっと、助かった! という気がした。目前に見た事の意味よりも、いきなり妻に怒鳴りつけられる事から免れたことの方が彼にとって重大だったのである。次に彼は何か少し悲しい気がした。嫉妬でも憤怒でもない。大嫉妬家のエビルに向って嫉妬するなどとは到底考えられぬことだし、怒りなどという感情はいじけた此の男の中から疾《と》うに磨滅し去っていて今は少しの痕跡さえ見られない。彼は唯何かほんの少し寂しい気がしただけである。彼は又そっと足音を忍ばせて家から遠ざかった。
何時かギラ・コシサンは男子組合《ヘルデベヘル》のア・バイの前に来ていた。中から微かに明りの洩れるのを見れば、誰かがいるに違いない。はいって見ると、ガランとした内に椰子殻の灯が一つともり、其の灯に背を向けて一人の女が寝ている。紛《まご》う方なきリメイだ。ギラ・コシサンは胸を躍らせて近寄った。向うむきに寝ている女の肩に手を掛けて揺すぶったが、女は此方を向かない。眠っているのではない様子である。もう一度揺すると、女が向うをむいた儘言った。「私はギラ・コシサンの|思い者《メゲレゲル》だから、誰も触ってはいけない!」ギラ・コシサンはとび上った。欣びに顫《ふる》える声で叫んだ。「俺だ。俺だ。ギラ・コシサンだ。」驚いて振向いたリメイの目に大粒の涙が見る見る湧いた。
大分長い間経って二人が我に返った時、リメイは(エビルを負かす程の強い女だったにも拘わらず)さめざめと泣きながら、彼が来なくなってからの久しい間に、如何に操を立てるのが苦しかったかを、かき口説いた。もう二三日も立てば或いは操を立て通し切れなかったかも知れないとも言った。
妻があれ程淫奔で、娼婦が斯《か》くも貞淑だという事実は、卑屈なギラ・コシサンにも竟《つい》に妻の暴虐に対する叛逆を思い立たせた。以前の壮烈な恋喧嘩《ヘルリス》の結果を見れば、優しく強いリメイがついている限り、幾らエビルが攻寄せて来ても恐れることはない。今迄之に思い到らず、愚図愚図とあの猛獣の窟から逃出さなかったとは、何という愚かなことだったか!
「逃げよ
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