う。」と彼は言った。此の際にもまだ逃げる[#「逃げる」に傍点]などという臆病な言い方を彼は用いた。「逃げよう。お前の村へ。」
 丁度、モゴルの契約期間も満期になる頃だったので、リメイも彼を伴っての帰村を承知した。二人は篝火のまわりに踊り狂う村人達の目を避け手を携えて間道から浜に出ると、先程繋いでおいた独木舟に乗り、夜の海に浮かび出た。
 翌朝白々明けに舟はリメイの故郷アルモノグイに着いた。二人はリメイの親の家に行き、其処《そこ》で結婚した。程経て、例のカヤンガル出来の舞踊台を村の衆に披露し、旁々盛大な|夫婦固めの式《ムル》を挙げたことは言う迄もない。
 一方、エビルは、夫がまだカヤンガルで舞踊台の出来上りを待っているとのみ思って、日夜数人の未婚の青年を集めて痴情に耽っていた。しかし、或日のこと、アルモノグイ近辺から来た椰子蜜採りの口から、竟に、事の真相を聞きつけた。
 エビルは忽《たちま》ちカアーッと逆上した。世の中に自分程可哀そうな者は無い、オボカズ女神の身体がパラオの島々と化して以来、リメイ程性の悪い女は無い、と喚《わめ》き、ワアワア泣きながら家を飛び出した。海岸のア・バイの所迄来ると、その前の大椰子樹に手を掛けて上ろうとした。昔、大変古い昔、此の村の或る男が財宝《ウドウド》と芋田と女とを友人に欺きとられた時、その男は此の椰子の親木(今からずっと前に枯れて了《しま》ったが、其の頃はまだ椰子としての男盛りで村一番の丈高い樹であった)に駈け上り、其の天辺から村中の人々に呼び掛けて、己の欺かれた次第を告げ、欺瞞者を呪い世を怨み神を怨み己を生んだ母親をも怨んで、それから、地上へ飛び下りた。之が言伝えに残る・前にも後にも此の島唯一人の自殺者だが、今エビルは此の男に倣《なら》おうとした。しかし、男になら訳なく登れる椰子の樹も、女には仲々むずかしい。殊にエビルは肥って腹が出ているので、登り易くする為に椰子の幹に刻んだ切痕を五段も攀じ上ると、早くも呼吸が切れて来た。もう之以上はどうしても登れそうもない。口惜しさにエビルは大声を出して村人を呼んだ。そうして、其の高みから(それでも地上二間位は登っていたろう)ずり落ちまいと必死に幹にしがみつきながら、己の憐れな境遇を訴えた。海蛇の名に誓い椰子蟹と小判鮫の名にかけて、夫と其の情婦とを呪った。呪いながら、涙にかきくれた目で下を見ると、村
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