果てた赭土丘《アケズ》の様に全然頭髪の無い人間だって俺は知っている。自分の鼻が踏みつけられたバナナ畑の蛙《かえる》のように潰れていないことも甚だ恥ずかしいことは確かだが、しかし、全然鼻のなくなった腐れ病[#「腐れ病」に傍点]の男も隣の島には二人もいるのだ。
だが、足るを知ること斯《か》くの如き男でも、やはり、病が酷《ひど》いよりも軽い方がいいし、真昼の太陽の直射の下でこき使われるよりも木蔭で午睡《ひるね》をした方が快い。哀れな賢い男も、時には、神々に祈ることがあった。病の苦しみか労働の苦しみか、どちらかを今少し減じ給え。もし此の願が余りに慾張り過ぎていないなら、何卒、と。
タロ芋を供えて彼が祈ったのは、椰子蟹カタツツと蚯蚓《みみず》ウラズの祠《ほこら》である。此の二神は共に有力な悪神として聞こえている。パラオの神々の間では、善神は供物を供えられることが殆ど無い。御機嫌をとらずとも祟《たたり》をしないことが分かっているから。之に反して、悪神は常に鄭重に祭られ多くの食物を供えられる。海嘯《かいしょう》や暴風や流行病は皆悪神の怒から生ずるからである。さて、力ある悪神・椰子蟹と蚯蚓とが哀れな男の祈願を聞入れたのかどうか、とにかくそれから暫くして、或晩この男は妙な夢を見た。
其《そ》の夢の中で、哀れな下僕は何時《いつ》の間にか長老《ルバック》になっていた。彼の坐っているのは母屋の中央、家長のいるべき正座である。人々は皆|唯々《いい》として彼の言葉に従う。彼の機嫌を損《そこ》ねはせぬかと惴々焉《ずいずいえん》として懼《おそ》れるものの如くである。彼には妻がある。彼の食事の支度に忙しい婢女《はしため》も大勢いる。彼の前に出された食卓の上には、豚の丸焼や真赤に茹《ゆ》だったマングローブ蟹や正覚坊の卵が山と積まれている。彼は事の意外に驚いた。夢の中ながら、夢ではないかと疑った。何か不安で仕方が無い。
翌朝、目が醒《さ》めると、彼はやはり屋根が破れ柱の歪んだ何時もの物置小舎の隅に寝ていた。珍しく、朝鳥の鳴く音にも気付かず寝過ごしたので、家人の一人に酷く叩かれた。
次の夜、夢の中で彼は又長老になった。今度は彼も前夜程驚かない。下僕に命令する言葉も前夜よりは大分横柄になって来た。食卓には今度も美味佳肴《びみかこう》が堆《うずたか》く載っている。妻は筋骨の逞しい申し分の無い美人だし
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