南島譚
幸福
中島敦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)此《こ》の島に
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)第一|長老《ルバック》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「厭/食」、第4水準2−92−73]
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昔、此《こ》の島に一人の極めて哀れな男がいた。年齢《とし》を数えるという不自然な習慣が此の辺には無いので、幾歳《いくつ》ということはハッキリ言えないが、余り若くないことだけは確かであった。髪の毛が余り縮れてもおらず、鼻の頭がすっかり[#「すっかり」に傍点]潰《つぶ》れてもおらぬので、此の男の醜貌《しゅうぼう》は衆人の顰笑《ひんしょう》の的《まと》となっていた。おまけに脣《くちびる》が薄く、顔色にも見事な黒檀《こくたん》の様な艶が無いことは、此の男の醜さを一層甚だしいものにしていた。此の男は、恐らく、島一番の貧乏人であったろう。ウドウドと称する勾玉《まがたま》の様なものがパラオ地方の貨幣であり、宝であるが、勿論、此の男はウドウドなど一つも持ってはいない。ウドウドも持っていない位だから、之《これ》によって始めて購《あがな》うことの出来る妻をもてる訳がない。たった独りで、島の第一|長老《ルバック》の家の物置小舎の片隅に住み、最も卑しい召使として仕えている。家中のあらゆる卑しい勤めが、此の男一人の上に負わされる。怠け者の揃った此の島の中で、此の男一人は怠ける暇が無い。朝はマンゴーの繁みに囀《さえず》る朝鳥よりも早く起きて漁に出掛ける。手槍《ピスカン》で大蛸《おおだこ》を突き損《そこな》って胸や腹に吸い付かれ、身体中|腫《は》れ上ることもある。巨魚タマカイに追われて生命《いのち》からがら独木舟《カヌー》に逃げ上ることもある。盥《たらい》ほどもある車渠貝《アキム》に足を挟まれ損ったこともある。午《ひる》になり、島中の誰彼が木蔭や家の中の竹床の上でうつらうつら[#「うつらうつら」に傍点]午睡をとる時も、此の男ばかりは、家内の清掃に、小舎の建築に、椰子蜜《やしみつ》採りに、椰子縄|綯《な》いに、屋根|葺《ふ》きに、家具類の製作に、目が廻る程忙しい。此の男の皮膚はスコールの後の野鼠の様に絶えず汗でびっしょり濡れている。
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