れない。或る時そうした場合にぶつかり、彼が謹しんで水中に飛び込もうとすると、一匹の鱶《ふか》の姿が目に入った。彼が躊躇《ちゅうちょ》するのを見た長老《ルバック》の従者が、怒って棒切を投げつけ、彼の左の目を傷けた。巳《や》むを得ず、彼は鱶の泳いでいる水の中に跳び込んだ。其の鱶がもう三尺大きい奴だったら、彼は、足の指を三本喰切られただけでは済まなかったに違いない。
 此の島から遥か南方に離れた文化の中心地コロール島には、既に、皮膚の白い人間共が伝えたという悪い病が侵入して来ていた。その病には二つある。一つは、神聖な天与の秘事を妨げる怪しからぬ病であって、コロールでは男が之《これ》にかかる時は男の病[#「男の病」に傍点]と呼ばれ、女がなる場合は女の病[#「女の病」に傍点]といわれる。もう一つの方は、極めて微妙な・徴候の容易に認め難い病気であって、軽い咳《せき》が出、顔色が蒼ざめ、身体が疲れ、痩せ衰えて何時《いつ》の間にか死ぬのである。血を喀《は》くこともあれば、喀《は》かないこともある。此の話の主人公たる哀れな男は、どうやら、此の後《あと》の方の病気にかかっていたらしい。絶えず空咳《からぜき》をし、疲れる。アミアカ樹の芽をすり潰して其の汁を飲んでも、蛸樹《オゴル》の根を煎じて飲んでも、一向に効き目が無い。彼の主人は之に気が付き、哀れな下男が哀れな病気になったことを大変ふさわしいと考えた。それで、此の下男の仕事は益々ふえた。
 哀れな下男は、しかし、大変賢い人間だったので、己《おの》が運命を格別辛いとは思わなかった。己《おのれ》の主人が如何《いか》に苛刻であっても、尚、自分に、視ることや聴くことや呼吸すること迄禁じないから有難いと思っていた。自分に課せられる仕事が如何に多くとも、なお婦人の神聖な天職たる芋田《ムセイ》耕作だけは除外されていることを有難く思おうと考えた。鱶のいる海に跳び込んで足の指三本を失ったことは不幸のようだが、それでも脚全体を喰切られなかったことを感謝しよう。空咳《からぜき》の出る疲れ病[#「疲れ病」に傍点]に罹《かか》ったことも、疲れ病[#「疲れ病」に傍点]と同時に男の病[#「男の病」に傍点]に迄罹る人間もあることを思えば、少くとも一つの病だけは免れたことになる。自分の頭髪が乾いた海藻の様に縮れていないことは明らかに容貌上の致命的欠陥には違いないが、荒れ
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