とにかく、自分の直接の主人に当る孔※[#「りっしんべん+里」、第3水準1−84−49]が捕《とら》えられ脅されたと聞いては、黙っている訳に行かない。おっ取り刀で、彼は公宮へ駈け付ける。
 外門を入ろうとすると、ちょうど中から出て来るちんちくりん[#「ちんちくりん」に傍点]な男にぶっつかった。子羔《しこう》だ。孔門の後輩で、子路の推薦《すいせん》によってこの国の大夫となった・正直な・気の小さい男である。子羔が言う。内門はもう閉《しま》ってしまいましたよ。子路。いや、とにかく行くだけは行ってみよう。子羔。しかし、もう無駄ですよ。かえって難に遭うこともないとは限らぬし。子路が声を荒《あ》らげて言う。孔家の禄《ろく》を喰《は》む身ではないか。何のために難を避ける?
 子羔を振切って内門の所まで来ると、果して中から閉っている。ドンドンと烈《はげ》しく叩《たた》く。はいってはいけない! と、中から叫ぶ。その声を聞き咎《とが》めて子路が怒鳴《どな》った。公孫敢《こうそんかん》だな、その声は。難を逃《のが》れんがために節を変ずるような、俺は、そんな人間じゃない。その禄を利した以上、その患《かん》を救わねばならぬのだ。開《あ》けろ! 開けろ!
 ちょうど中から使の者が出て来たので、それと入違いに子路は跳び込んだ。
 見ると、広庭一面の群集だ。孔※[#「りっしんべん+里」、第3水準1−84−49]の名において新衛侯|擁立《ようりつ》の宣言があるからとて急に呼び集められた群臣である。皆それぞれに驚愕《きょうがく》と困惑《こんわく》との表情を浮《う》かべ、向背《こうはい》に迷うもののごとく見える。庭に面した露台《ろだい》の上には、若い孔※[#「りっしんべん+里」、第3水準1−84−49]が母の伯姫と叔父《おじ》の※[#「萠+りっとう」、第3水準1−91−14]※[#「耳+貴」、第4水準2−85−14]とに抑えられ、一同に向って政変の宣言とその説明とをするよう、強《し》いられている貌《かたち》だ。
 子路は群衆の背後《うしろ》から露台に向って大声に叫んだ。孔※[#「りっしんべん+里」、第3水準1−84−49]を捕えて何になるか! 孔※[#「りっしんべん+里」、第3水準1−84−49]を離せ。孔※[#「りっしんべん+里」、第3水準1−84−49]一人を殺したとて正義派は亡《ほろ》びはせぬぞ!

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