屬するものであることは疑ひない。しかし、この儘では、第一流の作品となるのには、何處か(非常に微妙な點に於て)缺ける所があるのではないか、と。
舊詩を吐き終つた李徴の聲は、突然調子を變へ、自らを嘲るが如くに言つた。
羞《はづか》しいことだが、今でも、こんなあさましい[#「あさましい」に傍点]身と成り果てた今でも、己は、己の詩集が長安風流人士の机の上に置かれてゐる樣《さま》を、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たはつて見る夢にだよ。嗤《わら》つて呉れ。詩人に成りそこなつて虎になつた哀れな男を。(袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]は昔の青年李徴の自嘲癖を思出しながら、哀しく聞いてゐた。)さうだ。お笑ひ草ついでに、今の懷《おもひ》を即席の詩に述べて見ようか。この虎の中に、まだ、曾ての李徴が生きてゐるしるし[#「しるし」に傍点]に。
袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]は又下吏に命じて之を書きとらせた。その詩に言ふ。
[#ここから2字下げ]
偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃
今日爪牙誰敢敵 當時聲跡共相高
我爲異物蓬茅下 君已乘※[#「車+召」、第3水準1−92−44]氣勢豪
此夕溪山對明月 不成長嘯但成※[#「口+「皐」の「白」にかえて「自」、第4水準2−4−33]
[#ここで字下げ終わり]
時に、殘月、光冷やかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に曉の近きを告げてゐた。人々は最早、事の奇異を忘れ、肅然として、この詩人の薄倖を嘆じた。李徴の聲は再び續ける。
何故こんな運命になつたか判らぬと、先刻は言つたが、しかし、考へやうに依れば、思ひ當ることが全然ないでもない。人間であつた時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといつた。實は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかつた。勿論、曾ての郷黨の秀才だつた自分に、自尊心が無かつたとは云はない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいふべきものであつた。己《をれ》は詩によつて名を成さうと思ひながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交つて切磋琢磨に努めたりすることをしなかつた。かといつて、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかつた。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所爲である。己《をのれ》の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨かうともせず、又、己《おのれ》の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出來なかつた。己《おれ》は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚《ざんい》とによつて益※[#二の字点、1−2−22]己の内なる臆病な自尊心を飼ひふとらせる[#「ふとらせる」に傍点]結果になつた。人間は誰でも猛獸使であり、その猛獸に當るのが、各人の性情だといふ。己《おれ》の場合、この尊大な羞恥心が猛獸だつた。虎だつたのだ。之が己を損ひ、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形を斯くの如く、内心にふさはしいものに變へて了つたのだ。今思へば、全く、己《おれ》は、己の有《も》つてゐた僅かばかりの才能を空費して了つた譯だ。人生は何事をも爲さぬには餘りに長いが、何事かを爲すには餘りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事實は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭ふ怠惰とが己の凡てだつたのだ。己よりも遙かに乏しい才能でありながら、それを專一に磨いたがために、堂々たる詩家となつた者が幾らでもゐるのだ。虎と成り果てた今、己は漸くそれに氣が付いた。それを思ふと、己は今も胸を灼かれるやうな悔を感じる、己には最早人間としての生活は出來ない。たとへ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作つたにした所で、どういふ手段で發表できよう。まして、己《おれ》の頭は日毎に虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己は堪らなくなる。さういふ時、己は、向うの山の頂の巖に上り、空谷に向つて吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴へたいのだ。己は昨夕も、彼處で月に向つて咆えた。誰かに此の苦しみが分つて貰へないかと。しかし、獸どもは己の聲を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂つて、哮《たけ》つてゐるとしか考へない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の氣持を分つて呉れる者はない。恰度、人間だつた頃、己の傷つき易い内心を誰も理解して呉れなかつたやうに。己の毛皮の濡れたのは、夜露のためばかりではない。
漸く四邊《あたり》の暗さが薄らいで來た。木の間を傳つて、何處からか、曉角が哀しげに響き始めた。
最早、別れを告げねばならぬ。醉はねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の聲が言つた。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ
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