山月記
中島敦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)隴《ろう》西の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)博學|才穎《さいえい》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「埓のつくり+虎」、第3水準1−91−48]《くわく》略

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おめ/\と
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 隴《ろう》西の李徴は博學|才穎《さいえい》、天寶の末年、若くして名を虎榜《こぼう》に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃む所頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかつた。いくばくもなく官を退いた後は、故山、※[#「埓のつくり+虎」、第3水準1−91−48]《くわく》略に歸臥し、人と交を絶つて、ひたすら詩作に耽つた。下吏となつて長く膝を俗惡な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺さうとしたのである。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。李徴は漸く焦躁に驅られて來た。この頃から其の容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒らに烱々として、曾て進士に登第した頃の豐頬の美少年の俤は、何處に求めやうもない。數年の後、貧窮に堪へず、妻子の衣食のために遂に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになつた。一方、之は、己《をのれ》の詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遙か高位に進み、彼が昔、鈍物として齒牙にもかけなかつた其の連中の下命を拜さねばならぬことが、往年の秀才李徴の自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くない。彼は怏々として樂しまず、狂|悖《はい》の性は愈※[#二の字点、1−2−22]抑へ難くなつた。一年の後、公用で旅に出、汝水《ぢよすゐ》のほとりに宿つた時、遂に發狂した。或夜半、急に顏色を變へて寢床から起上ると、何か譯の分らぬことを叫びつつ其の儘下にとび下りて、闇の中へ駈出した。彼は二度と戻つて來なかつた。附近の山野を搜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなつたかを知る者は、誰もなかつた。
 翌年、監察御史、陳郡の袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]《えんさん》といふ者、勅命を奉じて嶺南に使し、途に商於《しやうを》の地に宿つた。次の朝未だ暗い中に出發しようとした所、驛吏が言ふことに、これから先の道に人喰虎が出る故、旅人は白晝でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜しいでせうと。袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]は、しかし、供廻りの多勢なのを恃み、驛吏の言葉を斥けて、出發した。殘月の光をたよりに林中の草地を通つて行つた時、果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。虎は、あはや袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]に躍りかかるかと見えたが、忽ち身を飜して、元の叢に隱れた。叢の中から人間の聲で「あぶない所だつた」と繰返し呟くのが聞えた。其の聲に袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]は聞き憶えがあつた。驚懼の中にも、彼は咄嗟に思ひあたつて、叫んだ。「其の聲は、我が友、李徴子ではないか?」袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かつた李徴にとつては、最も親しい友であつた。温和な袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]の性格が、峻峭な李徴の性情と衝突しなかつたためであらう。
 叢の中からは、暫く返辭が無かつた。しのび泣きかと思はれる微かな聲が時々洩れるばかりである。ややあつて、低い聲が答へた。「如何にも自分は隴西の李徴である」と。
 袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、懷かしげに久濶を叙した。そして、何故叢から出て來ないのかと問うた。李徴の聲が答へて言ふ。自分は今や異類の身となつてゐる。どうして、おめ/\と故人の前にあさましい姿をさらせようか。且つ又、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭の情を起させるに決つてゐるからだ。しかし、今、圖らずも故人に遇ふことを得て、愧赧《きたん》の念をも忘れる程に懷かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜惡な今の外形を厭はず、曾て君の友李徴であつた此の自分と話を交して呉れないだらうか。
 後《あと》で考へれば不思議だつたが、其の時、袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]は、この超自然の怪異を、實に素直に受容れて、少しも怪まうとしなかつた。彼は部下に命じて行列の進行を停め、自分は叢の傍に立つて、見えざる聲と對談した。都の噂、舊友の消息、袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]が現在の地位、それに對
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