。彼等は未だ※[#「埓のつくり+虎」、第3水準1−91−48]《くわく》略にゐる。固より、己の運命に就いては知る筈がない。君が南から歸つたら、己は既に死んだと彼等に告げて貰へないだらうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。厚かましいお願だが、彼等の孤弱を憐れんで、今後とも道塗《だうと》に飢凍《きとう》することのないやうにはからつて戴けるならば、自分にとつて、恩|倖《かう》、之に過ぎたるは莫《な》い。
言終つて、叢中から慟哭の聲が聞えた。袁も亦涙を泛べ、欣んで李徴の意に副ひ度い旨を答へた。李徴の聲は併し忽ち又先刻の自嘲的な調子に戻つて、言つた。
本當は、先づ、この事の方を先にお願ひすべきだつたのだ、己が人間だつたなら。飢ゑ凍えようとする妻子のことよりも、己《おのれ》の乏しい詩業の方を氣にかけてゐる樣な男だから、こんな獸に身を墮《おと》すのだ。
さうして、附加へて言ふことに、袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]が嶺南からの歸途には決して此の途《みち》を通らないで欲しい、其の時には自分が醉つてゐて故人を認めずに襲ひかかるかも知れないから。又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上つたら、此方を振りかへつて見て貰ひ度い。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇らうとしてではない。我が醜惡な姿を示して、以て、再び此處を過ぎて自分に會はうとの氣持を君に起させない爲であると。
袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]は叢に向つて、懇ろに別れの言葉を述べ、馬に上つた。叢の中からは、又、堪へ得ざるが如き悲泣の聲が洩れた。袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出發した。
一行が丘の上についた時、彼等は、言はれた通りに振返つて、先程の林間の草地を眺めた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失つた月を仰いで、二聲三聲咆哮したかと思ふと、又、元の叢に躍り入つて、再び其の姿を見なかつた。
底本:「文學界」
1942(昭和17)年2月
※「山月記」は『文學界』に「文字禍」と共に「古譚」の題で掲載されました。
※このファイルは、日本文学等テキストファイル(http://www.let.osaka−u.ac.jp/~okajima/bungaku.htm)で公開されたものを、青空文庫形式にあらためて作成しました。
※「己《をれ》」と「己《おれ》」、「己《をのれ》」と「己《おのれ》」の混在は底本通りにしました。
入力:岡島昭浩
校正:小林繁雄
2005年04月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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