った。それでなお足りないのだ。サー・ウォルター・スコットを思う。突然破産し・次いで妻を失い・絶えず債鬼に責められて機械的に駄作を書き飛ばさねばならなかった・晩年のスコットを。彼には、墓場のほかに休息は無かった。
又も戦争の噂。実に煮え切らないポリネシア的な紛争だ。燃えそうでいて燃えず、消えかかっていて、猶《なお》、くすぶっている。今度も、ツツイラの西部で酋長等の間に小競合があったばかりだから、大した事はなかろう。
一月××日
インフルエンザ流行。うち中殆どやられる。私の場合には余計な喀血《かっけつ》まで伴って。
ヘンリ(シメレ)が実に良く働いて呉れる。元来サモア人は極く賤《いや》しい者でも汚物を運ぶことを嫌うのに、小酋長たるヘンリが毎晩敢然と汚物のバケツを提げては蚊帳《かや》をくぐって捨てに行っていた。みんなが大抵|快《よ》くなった今、最後に彼に感染したらしく、熱を出している。近頃彼のことを戯れにデイヴィ(バルフォア)と呼ぶことにしている。
病中、又新しい作品を始めた。ベルに書取らせる。英国に捕虜となった一|仏蘭西《フランス》貴族の経験を書くのだ。主人公の名がアンヌ・ド・サント・イーヴ。それを英語読みにして「セント・アイヴス」と題しようと思う。ローランドソンの「文章法」と、一八一〇年代の仏蘭西及びスコットランドの風俗習慣、殊に監獄状態に就いての参考書を送って呉れるよう、バクスタアとコルヴィンとに頼んでやる。「ウィア・オヴ・ハーミストン」にも「セント・アイヴス」にも、両方に必要だから。図書館の無いこと。本屋との交渉に手間どること。此の二つには全く閉口する。記者に追いかけられる煩わしさの無いのは良いが。
政務長官も、裁判所長《チーフ・ジャスティス》も辞職説を伝えられながら、アピア政府の無理な政策は依然変らない。彼等は、税を無理に取立てるために、軍隊を増強してマターファを追払おうとしているようだ。成功するにしても、しないにしても、白人の不人気、人心の不安、この島の経済的疲弊は加わる一方である。
政治的な事に立入るのは煩わしい。此の方面に於ける成功は、人格|毀損《きそん》以外の如何なる結果をも齎《もたら》さない、とさえ思う。…………私の政治的関心(この島に於ける)が減った訳ではない。ただ、長く病臥《びょうが》し喀血などすると、自然、創作に割く時間が制限されるので、此の上にも貴重な時間をとる政治問題が少々うるさくなることがあるのだ。しかし、気の毒なマターファのことを考えると、じっとしていられないような気がする。精神的援助しか与えることの出来ぬ腑甲斐なさ! だが、お前に政治的権力があるとすれば、一体どうしてやり度いのだ? マターファを王にする? 宜しい。そうなればサモアは立派に存続できると思っているのか? 哀れな文学者よ。お前は本当にそう信じているのか? それとも、近い将来に於けるサモアの衰亡を予想しながら、唯感傷的な同情をマターファに注いでいるに過ぎないのか? 最も白人的な同情を。
コルヴィンからの手紙の中に、私の書信が余りに何時も「君の|黒色人及び褐色人《ブラックス・アンド・チョコレーツ》」のことを書き過ぎる、と言って来ている。ブラックス・アンド・チョコレーツに対する関心が私の制作時間を奪い過ぎては困るという・彼の気持は解らぬことはない。しかし結局、彼(並びに他の在英の友人達)には、私が私のブラックス・アンド・チョコレーツに対して如何に親身な気持を有《も》っているかが本当には解っていないのだ。この事ばかりでなく、他の一般に就いても、四年間も会わないで全然違った環境に身を置いている中に、彼等と私との間に、越え難い溝が出来ているのではないか? 此の考は恐ろしい。親しい者が長く離れているのは良くないことだ。泣き度い程会いたく思いながら、会った途端に、案外、双方ともあじきなく此の溝を意識しなければならぬのではないか? 恐ろしいが、之は本当かも知れぬ。人は変る。刻々に。我々は何たる怪物であるか!
二月××日 シドニイにて
自分で自分に休暇を与え、五週間位の予定でオークランドからシドニイヘ遊びに来たのだが、同行のイソベルは歯痛、ファニイは感冒、自分は感冒から肋膜炎《ろくまくえん》。何のために来たのだか解らぬ。それでも当市では、プレスビテリアン教会総会と芸術|倶楽部《クラブ》と、都合二回講演をした。写真を撮られ、像牌《メダリヨン》を作られ、街の通りを歩けば、人々が振返って私を指さし私の名をささやく。名声? 変なものだ。曾《かつ》て自分がそれに成上ることを卑しんだ名士[#「名士」に傍点]に、何時しか成上っているのか? 滑稽《こっけい》な話だ。サモアでは、土人の眼からは、大邸宅に住む白人酋長。アピアの白人連にとっては、政策上の敵か味方か、いずれかだ。その方が遥かに健全な状態だ。此の温帯地の・色彩の褪《あ》せた幽霊然たる風景と比べる時、我がヴァイリマの森の、何という美しさ! 我が・風吹く家の、何たる輝かしさ!
此の地に隠退している、ニュージーランドの父、サー・ジョージ・グレイに会った。政治家嫌いの私が彼に面会を求めたのは、彼が人間であることを――マオリ族に最も博大な人間愛を注いだ人間であることを信じたからだ。会って見ると、果して立派な老人だった。彼は実に良く土人を――その微妙な生活感情に至る迄、知っている。彼は真にマオリ人の身になって、彼等のことを考えてやった。植民地総督として全く異例のことだ。彼は、マオリ人に英人と同等の政治上の権力を与え、土人代議士の選出を認めた。そのため白人移民に欣《よろこ》ばれず、職を辞したのである。しかし、彼の斯うした努力のお蔭で、ニュージーランドは今最も理想的な植民地になっているのだ。私は彼に、サモアで自分のしたこと、しようと欲したこと、其の政治的自由に就いては自分の力の及ぶ所でないとするも兎に角、土人の将来の生活、その幸福の為に今後も尽くそうとしていること等を語った。老人は一々共鳴し、激励して呉れた。曰《いわ》く、「決して絶望するものではない。私は、如何なる場合にも絶望が無用であることを真に悟る迄長生した少数者の一人なのだ。」と。自分も大分元気になった。俗悪を知り尽くして、尚、高きものを失わない人間は、貴ばれねばならぬ。
木の葉一枚をとって見ても、サモアの脂ぎった盛上るような強い緑色と違って、此処のは、まるで生気のない・薄れかかったような色に見える。肋膜《ろくまく》が治り次第、早く、あの・空中に何時も緑金の微粒子が光り震えているような・輝かしい島へ帰りたい。文明世界の大都市の中では窒息しそうだ。騒音の煩わしさ! 金属のぶつかり合う硬い機械の音の、いらだたしさ!
四月×日
濠洲《ごうしゅう》行以来の私とファニイとの病気も漸《ようや》く治った。
此の朝の快さ。空の色の美しさ、深さ、新しさ。今、大いなる沈黙は、ただ遠く太平洋の呟きによって破られるのみ。
小旅行と引続いて病気をしている間に、島の政治情勢はひどく急迫して来ている。政府側のマターファ或いは叛乱者側に対する挑戦的態度が目立って来た。土人の所有せる武器を凡《すべ》て取上げることになるだろうという。今や政府側の軍備が充実したに違いない。一年前と比べて、情勢はマターファに著しく不利だ。役人達・酋長《しゅうちょう》達に会って見ても、戦争を避けようと真面目に考えている者がないのに驚かされる。白人官吏は之を利用して自分等の支配権の拡充を考えるだけだし、土人、殊にその青年共は戦争と聞いただけで、ただもう興奮して了う。マターファは案外落着いている。彼は形勢の不利を自覚していないのだ。彼も、彼の部下も、戦争を、自分等の意志を離れた一つの自然現象と考えているようだ。
ラウペパ王は、彼とマターファとの間に立とうとする私の調停を斥《しりぞ》けた。面と向っている時は極めて愛想の良い男だのに、会わないでいると、直ぐ斯《こ》うだ。彼自身の意志でないことは明らかだが。
ポリネシア式の優柔不断が戦争を容易に起させないであろうことを唯一の頼として、拱手《きょうしゅ》傍観している外はないのか? 権力を有《も》つのは善い事だ。もし、それが、それを濫用しない理性の下にある時は。
ロイドに手伝わせながら「退潮《エッブ・タイド》」遅々として進行中。
五月×日
「退潮《エッブ・タイド》」に苦吟。三週間かかって、やっと二十四頁。それも全部に亘って、もう一度書直しを要するのだ。(スコットの恐るべき速さを考えると厭《いや》になる。)第一、これは作品としても下《くだ》らぬものだ。昔は、前日書いた分を読返して見るのが楽しかったのに。
マターファ側の代表者が政府と交渉の為、毎日マリエからアピアヘ通《かよ》っていると聞いて、彼等をうち[#「うち」に傍点]へ引取って、此処から通わせることにした。毎日往復十四|哩《マイル》では大変だから。但し、この事によって、私は今や公然と叛乱者側の一員と認められるようになった。私への書簡は一々チーフ・ジャスティスの検閲を受けねばならぬ。
夜、ルナンの「基督《キリスト》教の起原」を読む。素晴らしく面白い。
五月××日
郵船日だというのに、やっと十五頁分(「退潮《エッブ・タイド》」)しか送れない。もう此の仕事は厭になった。スティヴンスン家の歴史でも又続けようか? それとも、「ウィア・オヴ・ハーミストン」? 「退潮《エッブ・タイド》」には全く不満だ。文章に就いて云っても、言葉のヴェイルがあり過ぎる。もっと裸の筆が欲しい。
収税吏に新宅の税を督促さる。郵便局へ行き、「島の夜話」六部を受取る。挿絵を見て驚いた。挿絵画家は南洋を見たことがないのだ。
六月××日
消化不良と喫煙過多と、金にならぬ過労とで、全く死にそうだ。「退潮《エッブ・タイド》」百一頁迄漸く辿《たど》りつく。一人の人物の性格がはっきり掴《つか》めない。それに近頃は文章に迄苦労するんだから、話にならぬ。一つの文句に半時間かかる。色々な類似の文句を無闇に並べて見ても、中々気に入るのが見付からない。斯んな莫迦《ばか》げた苦労は、何ものをも産みはせぬ。くだらぬ蒸溜《じょうりゅう》だ。
今日は朝から西風、雨、飛沫《しぶき》、冷々した気温。ヴェランダに立っていたら、ふと、或る異常な(一見根拠のない)感情が私を通って流れた。私は文字通り、よろめいた。それから、やっと説明がついた。私は、スコットランド的な雰囲気とスコットランド的な精神や肉体の状態を見出したからだと悟った。平生のサモアとは似てもつかない・この冷々した・湿っぽい・鉛色の風景が、私を何時しか、そんな状態に変えていたのだ。ハイランドの小舎。泥炭の煙。濡れた着物。ウイスキイ。鱒の躍る渦巻く小川。今此処から聞えるヴァイトゥリンガの水音までが、ハイランドの急流のそれの様な気がして来る。自分は何の為に故郷を飛出して、こんな所迄流れて来たのか? 胸を締めつけられる様な思慕を以て遠くからそれを思出すために、か? ひょいと、何の関係もない・妙な疑念が湧いた。自分は今迄何か良き仕事を此の地上に残したか? と。之は怪しいものだ。何故又私は、そんな事を知りたいと望むのか? ほんの僅かの時が経てば、私も、英国も、英語も、わが子孫の骨も、みんな記憶から消えて了うだろうに。しかも――それでも人間は、ほんの暫しの間でも人々の心に自分の姿を留めて置きたいと考える。下らぬ慰みだ。…………
こんな暗い気持にとりつかれるのも、過労と、「退潮《エッブ・タイド》」の苦しみとの結果だ。
六月××日
「退潮《エッブ・タイド》」は一時暗礁に乗上げたままにして置いて、「エンジニーアの家」の祖父の章を書上げた。
「退潮《エッブ・タイド》」は最悪の作品に非ざるか?
小説という文学の形式――少くとも私の形式――が厭になって来た。
医者に診て貰うと、少し休養をとれ、と云う。執筆を止めて軽い戸外運動だけにすることだ、と。
十一
医者というものを、彼は信用しな
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