アンズは別として、ファーガスンと私とは余りに良く似ていた。青年時代の或る時期に私は(ヴィヨンの詩と共に)ファーガスンの詩に惑溺《わくでき》していた。彼は私と同じ都に生れ、同じ様に病弱で、身を持ち崩し、人に嫌われ、悩み、果は、(之だけは違うが)癲狂院《てんきょういん》で死んで行った。そして彼の美しい詩も今では殆ど人に忘れられているのに、彼よりも遥かに才能に乏しいR・L・S・の方は兎も角も今迄生きのび、豪華な全集まで出版されようというのだ。この対比が心を傷ませてならぬ。

五月×日
 朝、胃痛ひどく、阿片《あへん》丁幾《チンキ》服用。ために、咽喉《のど》が涸《かわ》き、手足の痺《しび》れるような感じが頻《しき》りにする。部分的錯乱と、全体的痴呆。

 最近アピアの週刊御用新聞が盛んに私を攻撃し出した。しかも、ひどく口汚く。近頃の私は最早政府の敵ではない筈で、事実、新長官のシュミット氏や今度のチーフ・ジャスティスとも、かなり巧《うま》く行っているのだから、新聞を唆《そそのか》しているのは領事連に違いない。彼等の越権行為を私が屡々《しばしば》攻撃しているからだ。今日の記事など、実に陋劣《ろうれつ》だ。初めは腹が立ったが、近頃は寧《むし》ろ光栄を覚えるくらいだ。
「見よ。これが俺の位置だ。俺は森の中に住む一平凡人だのに、何と彼等が俺一人を目の敵《かたき》にやっき[#「やっき」に傍点]となることか! 彼等が毎週繰返して、俺には勢力が無いと吹聴《ふいちょう》せねばならぬ程、俺は勢力を有《も》っている訳だ。」

 攻撃は街からばかりではない。海を越えて遥か彼方からもやって来る。こんな離れ島にいても尚、批評家共の声は届くのだ。何と色々な事を言う奴が多いことだ! おまけに、褒める者も貶《けな》す者も、共に誤解の上に立っているのだから遣り切れない。褒貶《ほうへん》に拘《かか》わらず兎に角私の作品に完全な理解を示して呉れるのは、ヘンリイ・ジェイムズ位のものだ。(しかも、彼は小説家であって、批評家ではない。)優れた個人が或る雰囲気の中に在ると、個人としては想像も出来ぬような集団的偏見を有つに至るものだ、という事が、斯《こ》うして、狂える群より遠く離れた地位にいると、実に良く解るような気がする。此の地の生活の齎《もたら》した利益の一つは、ヨーロッパ文明を外部から捉われない眼で観ることを学んだ点だ。ゴスが言っているそうだ。「チャリング・クロスの周囲三|哩《マイル》以内の地にのみ、文学は在り得る。サモアは健康地かも知れないが、創作には適さない所らしい。」と。或る種の文学に就いては、之は本当かも知れぬ。が、何という狭い捉われた文学観であろう!
 今日の郵船で着いた雑誌類の評論を一わたり見ると、私の作品に対する非難は、大体、二つの立場から為されているようだ。即ち、性格的な或いは心理的な作品を至上と考えている人達からと、極端な写実を喜ぶ人達からと、である。
 性格的|乃至《ないし》心理的小説と誇称する作品がある。何とうるさいことだ、と私は思う。何の為にこんなに、ごたごたと性格説明や心理説明をやって見せるのだ。性格や心理は、表面に現れた行動によってのみ描くべきではないのか? 少くとも、嗜《たしな》みを知る作家なら、そうするだろう。吃水《きっすい》の浅い船はぐらつく。氷山だって水面下に隠れた部分の方が遥かに大きいのだ。楽屋裏迄見通しの舞台のような、足場を取払わない建物のような、そんな作品は真平だ。精巧な機械程、一見して単純に見えるものではないか。
 さて、又一方、ゾラ先生の煩瑣《はんさ》なる写実主義、西欧の文壇に横行すと聞く。目にうつる事物を細大|洩《も》らさず列記して、以て、自然の真実を写し得たりとなすとか。その陋《ろう》や、哂《わら》うべし。文学とは選択だ。作家の眼とは、選択する眼だ。絶対に現実を描くべしとや? 誰か全き現実を捉え得べき。現実は革。作品は靴。靴は革より成ると雖《いえど》も、しかも単なる革ではないのだ。

「筋の無い小説」という不思議なものに就いて考えて見たが、よく解らぬ。文壇から余りに久しく遠ざかっていたため、私には最早若い人達の言葉が理解できなくなって了ったのだろうか。私一個にとっては、作品の「筋[#「筋」に傍点]」乃至《ないし》「話[#「話」に傍点]」は、脊椎《せきつい》動物に於ける脊椎の如きものとしか思われない。「小説中に於ける事件[#「事件」に傍点]」への蔑視《べっし》ということは、子供が無理に成人《おとな》っぽく見られようとする時に示す一つの擬態ではないのか? クラリッサ・ハアロウとロビンソン・クルーソーとを比較せよ。「そりゃ、前者は芸術品で、後者は通俗も通俗、幼稚なお伽《とぎ》話《ばなし》じゃないか」と、誰でも云うに決っている。宜しい。確かに、それは真実である。私も此の意見を絶対に支持する。ただ、此の言を為した所の人が、果して、クラリッサ・ハアロウを一度でも通読したことがあるか、どうか。又、ロビンソン・クルーソーを五回以上読んだことがないか、どうか、それが些《いささ》か疑わしいだけのことだ。
 之は非常にむずかしい問題だ。ただ云えることは、真実性と興味性とを共に完全に備えたものが、真の叙事詩だということだ。之をモツァルトの音楽に聴け。
 ロビンソン・クルーソーといえば、当然、私の「宝島」が問題になる。あの作品の価値に就いては暫く之を措《お》くとするも、あの作品に私が全力を注いだという事を大抵の人が信じて呉れないのは、不思議だ。後に「誘拐《キッドナップト》」や「マァスタア・オヴ・バラントレエ」を書いた時と同じ真剣さで、私はあの書物を書いた。おかしいことに、あれを書いている間ずっと、私は、それが少年の為の読物であることをすっかり忘れていたらしいのだ。私は今でも、私の最初の長篇たる・あの少年読物が嫌いではない。世間は解って呉れないのだ、私が子供であることを。所で、私の中の子供を認める人達は、今度は、私が同時に成人《おとな》だということを理解して呉れないのだ。
 成人《おとな》、子供、ということで、もう一つ。英国の下手な小説と、仏蘭西《フランス》の巧《うま》い小説に就いて。(仏蘭西人はどうして、あんなに小説が巧いんだろう?)マダム・ボヴァリイは疑もなく傑作だ。オリヴァア・トゥイストは、何という子供じみた家庭小説であることか! しかも、私は思う。成人《おとな》の小説を書いたフロオベェルよりも、子供の物語を残したディッケンズの方が、成人《おとな》なのではないか、と。但し、此の考え方にも危険はある。斯《か》かる意味の成人《おとな》は、結局何も書かぬことになりはしないか? ウィリアム・シェイクスピア氏が成長してアール・オヴ・チャタムとなり、チャタム卿《きょう》が成長して名も無き一市井人となる。(?)
 
 同じ言葉で、めいめい勝手な違った事柄を指したり、同じ事柄を各々違った、しかつめらしい言葉で表現したりして、人々は飽きずに争論を繰返している。文明から離れていると、この事の莫迦《ばか》らしさが一層はっきりして来る。心理学も認識論も未だ押寄せて来ない此の離れ島のツシタラにとっては、リアリズムの、ロマンティシズムのと、所詮は、技巧上の問題としか思えぬ。読者を引入れる・引入れ方の相違だ。読者を納得させるのがリアリズム。読者を魅するものがロマンティシズム。

七月×日
 先月来の悪性の感冒も漸《ようや》く癒《い》え、この二三日、続けて、碇泊中《ていはくちゅう》のキューラソー号へ遊びに行っている。今朝は早く街へ下り、ロイドと共に政務長官エミイル・シュミット氏の所で朝食をよばれた。それから揃ってキューラソー号に行き、昼食も艦上で済ます。夜はフンク博士の所でビーア・アーベント。ロイドは早く帰り、私一人ホテル泊りの積りで、遅く迄話し込んだ。さて、その帰途、頗《すこぶ》る妙な経験をした。面白い[#「面白い」は底本では「画白い」]から、書留めて置こう。
 ビールの後で飲んだバーガンディが大分利いたと見え、フンク氏の家を辞した時は、かなり酩酊《めいてい》していた。ホテルヘ行くつもりで四五十歩あるいた頃迄は、「酔っているぞ。気を付けなければ」と自分で警戒する気持も多少はあったのだが、それが何時の間にか緩んで、やがて、あとは何が何やら、まるで解らなくなって了った。気がつくと、私は黴《かび》のにおい[#「におい」に傍点]のする暗い地面に倒れていた。土臭い風が生温《なまぬる》く顔に吹きつけていた。その時、うっすらと眼覚めかけた私の意識に、遠方から次第に大きくなりつつ近づいて来る火の玉の様に、ピシャリと飛付いたのは、――あとから考えると全く不思議だが、私は、地面に倒れていた間中、ずっと、自分がエディンバラの街にいるものと感じていたらしいのだ――「ここはアピアだぞ。エディンバラではないぞ」という考であった。此の考が閃《ひらめ》くと、一時はっと気が付きかけたが、暫くして再び意識が朦朧《もうろう》とし出した。ぼんやりした意識の中に妙な光景が浮び上って来た。往来で俄《にわ》かに腹痛を催した私が、急いで傍にあった大きな建物の門をくぐって不浄場を借りようとすると、庭を掃いていた老人の門番が「何の用です?」と鋭く咎《とが》める。「いや、一寸、手洗場を。」「ああ、そんなら、よござんす。」と言って、うさん臭そうに、もう一度私の方を眺めてから再び箒《ほうき》を動かし始める。「いやな奴だな。何が、そんならよござんすだ。」…………それは確かに、もうずっと昔、何処かで――これはエディンバラではない。多分カリフォルニアの或る町で――実際に私の経験したことだが…………ハッと気がつく。私の倒れている鼻の先には、高い黒い塀が突立っている。夜更のアピアの街のこととて何処も彼処も真暗だが、此の高い塀は、其処から二十|碼《ヤード》ばかり行くと切れていて、その向うには、どうやら薄黄色い光が流れているらしい。私はよろよろ立上り、それでも傍に落ちていたヘルメット帽を拾って、其の黴臭い・いやなにおい[#「におい」に傍点]のする塀――過去の、おかしな場面を呼起したのは、此のにおい[#「におい」に傍点]かも知れぬ――を伝って、光のさす方へ歩いて行った。塀は間もなく切れて、向うをのぞくと、ずっと遠くに街灯が一つ、ひどく小さく、遠眼鏡で見た位に、ハッキリと見える。そこは、やや広い往来で、道の片側には、今の塀の続きが連なり、その上に覗き出した木の茂みが、下から薄い光を受けながら、ざわざわ風に鳴っている。何ということなしに、私は、其の通を少し行って左へ曲れば、ヘリオット・ロウ(自分が少年期を過したエディンバラの)の我が家に帰れるように考えていた。再びアピアということを忘れ、故郷の街にいる積りになっていたらしい。暫く光に向って進んで行く中に、ひょいと、しかし今度は確かに眼が覚めた。そうだ。アピアだぞ、此処は。――すると、鈍い光に照らされた往来の白い埃《ほこり》や、自分の靴の汚れにもハッキリ気が付いた。ここはアピア市で、自分は今フンク氏の家からホテル迄歩いて行く途中で、…………と、其処で、やっと完全に私は意識を取戻したのだ。
 大脳の組織の何処かに間隙でも出来ていたような気がする。酔っただけで倒れたのではないような気がする。
 或いは、こんな変な事を詳しく書留めて置こうとすること自体が、既に幾分病的なのかも知れない。

八月×日
 医者に執筆を禁じられた。全然よす訳には行かないが、近頃は毎朝二三時間畑で過すことにしている。之は大変工合が良いようだ。ココア栽培で一日十|磅《ポンド》も稼げれば、文学なんか他人《ひと》に呉れてやってもいいんだが。
 うち[#「うち」に傍点]の畑でとれるもの――キャベツ、トマト、アスパラガス、豌豆《えんどう》、オレンジ、パイナップル、グースベリィ、コール・ラビ、バーバディン、等。
「セント・アイヴス」も、そう悪い出来とは思わないが、兎角、難航だ。目下、オルムのヒンドスタン史を読んでいるが、大変面白い。十
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