底に動く藍紫色の・なまめかしいばかりに深々とした艶と翳《かげ》。丘は、はや日没の影を漂わせているのに、巨大な雲の頂上は、白日の如き光に映え、火の如く・宝石の如き・最も華やかな柔かい明るさを以て、世界を明るくしている。それは、想像される如何なる高さよりも高い所にある。下界の夜から眺める・其の清浄|無垢《むく》の華やかな荘厳さは、驚異以上である。
 雲に近く、細い上弦の月が上っている。月の西の尖《とが》りの直ぐ上に、月と殆ど同じ明るさに光る星を見た。黒み行く下界の森では、鳥共の疳高《かんだか》い夕べの合唱。

 八時頃見たら、月は先刻より大分明るく、星は今度は月の下に廻っていた。明るさは依然同じくらい。

七月××日
「デイヴィッド・バルフォア」漸《ようや》く快調。
 キューラソー号入港、艦長ギブソン氏と会食。
 巷間《こうかん》の噂によれば、R・L・S・は本島より追放さるべしと。英国領事がダウニング街に訓令を請いたる由。余の存在は島内の治安に害ありとや? 余も亦偉大なる政治的人物にあらずや。

八月××日
 昨日又、マターファの招により、マリエに赴く。通訳はヘンリ(シメレ)。会談中マター
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