実際に私の経験したことだが…………ハッと気がつく。私の倒れている鼻の先には、高い黒い塀が突立っている。夜更のアピアの街のこととて何処も彼処も真暗だが、此の高い塀は、其処から二十|碼《ヤード》ばかり行くと切れていて、その向うには、どうやら薄黄色い光が流れているらしい。私はよろよろ立上り、それでも傍に落ちていたヘルメット帽を拾って、其の黴臭い・いやなにおい[#「におい」に傍点]のする塀――過去の、おかしな場面を呼起したのは、此のにおい[#「におい」に傍点]かも知れぬ――を伝って、光のさす方へ歩いて行った。塀は間もなく切れて、向うをのぞくと、ずっと遠くに街灯が一つ、ひどく小さく、遠眼鏡で見た位に、ハッキリと見える。そこは、やや広い往来で、道の片側には、今の塀の続きが連なり、その上に覗き出した木の茂みが、下から薄い光を受けながら、ざわざわ風に鳴っている。何ということなしに、私は、其の通を少し行って左へ曲れば、ヘリオット・ロウ(自分が少年期を過したエディンバラの)の我が家に帰れるように考えていた。再びアピアということを忘れ、故郷の街にいる積りになっていたらしい。暫く光に向って進んで行く中に、ひょ
前へ 次へ
全177ページ中139ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング