ないお話[#「お話」に傍点]だ。スティヴンスンなんて結局通俗作家さ。」と、多くの人がそう言う。しかし、スティヴンスンの愛読者は、決して、それに答える言葉に窮しはしない。「賢明なスティヴンスンの守護天使《ジーニアス》(その導きによって彼が、作家たる彼の運命を辿《たど》ったのだが)が、彼の寿命の短いであろうことを知って、(何人にとっても四十歳以前に其の傑作を生むことが恐らくは不可能であろう所の・)人間性|剔抉《てっけつ》の近代小説道を捨てさせ、その代りに、此の上なく魅力に富んだ怪奇な物語の構成と、その巧みな話法との習練に(之ならば仮令早世しても、少くとも幾つかの良き美しきものは残せよう)向わせたのである」と。「そして、之こそ、一年の大部分が冬である北国の植物にも、極く短い春と夏の間に大急ぎで花を咲かせ実を結ばせる・あの自然の巧みな案排《あんばい》の一つなのだ」と。人、或いは云うであろう。ロシア及びフランスのそれぞれ最も卓《すぐ》れた最も深い短篇作家も、共に、スティヴンスンと同年、或いは、より若く死んでいるではないか、と。しかし彼等は、スティヴンスンがそうであった様に、絶えざる病苦によって短命の予覚に脅され通しではなかったのである。
 小説《ロマンス》とは circumstance の詩だと、彼は言った。事件《インシデント》よりも、それに依って生ずる幾つかの場面の効果を、彼は喜んだのである。ロマンス作家を以て任じていた彼は、(自ら意識すると、せぬとに拘《かか》わらず)自分の一生を以て、自己の作品中最大のロマンスたらしめようとしていた。(そして、実際、それは或る程度迄成功したかに見える。)従って其の主人公《ヒーロー》たる自己の住む雰囲気は、常に、彼の小説に於ける要求と同じく、詩をもったもの、ロマンス的効果に富んだものでなければならなかった。雰囲気描写の大家たる彼は、実生活に於て自分の行動する場面場面が、常に、彼の霊妙な描写の筆に値する程のものでなければ我慢がならなかったのである。傍人の眼に苦々しく映ったに違いない・彼の無用の気取(或いはダンディズム)の正体は、正しく此処にあった。何の為に酔狂にも驢馬《ろば》なんか連れて、南|仏蘭西《フランス》の山の中をうろつかねばならぬか? 何の為に、良家の息子が、よれよれ[#「よれよれ」に傍点]の襟飾《ネクタイ》をつけ、長い赤リボンのついた古帽子をかぶって放浪者気取をする必要があるか? 何だって又、歯の浮くような・やにさがった[#「やにさがった」に傍点]調子で「人形は美しい玩具だが、中味は鋸屑《おがくず》だ」などという婦人論を弁じなければ気が済まぬのか? 二十歳のスティヴンスンは、気障のかたまり[#「かたまり」に傍点]、厭味《いやみ》な無頼漢《ならずもの》、エディンバラ上流人士の爪弾き者だった。厳しい宗教的雰囲気の中に育てられた白面病弱の坊ちゃんが、急に、自らの純潔を恥じ、半夜、父の邸《やしき》を抜け出して紅灯の巷《ちまた》をさまよい歩いた。ヴィヨンを気取り、カサノヴァを気取る此の軽薄児も、しかし、唯一筋の道を選んで、之に己の弱い身体と、短いであろう生命とを賭《か》ける以外に、救いのないことを、良く知っていた。緑酒と脂粉の席の間からも、其の道が、常に耿々《こうこう》と、ヤコブの砂漠で夢見た光の梯子《はしご》の様に高く星空迄届いているのを、彼は見た。

   十

一八九二年十一月××日
 郵船日とてベルとロイドとが昨日から街へ行って了ったあと、イオプは脚が痛くなり、ファアウマ(巨漢の妻は再びケロリとして夫の許に戻って来た。)は肩に腫物《はれもの》が出来、フアニイは皮膚に黄斑《おうはん》が出来始めた。ファアウマのは丹毒の懼《おそれ》があるから素人療法では駄目らしい。夕食後騎馬で医者の所へ行く。朧月夜《おぼろづきよ》。無風。山の方で雷鳴。森の中を急ぐと、例の茸《きのこ》の蒼い灯が地上に点々と光る。医者の所で明日の来診を頼んだ後、九時迄ビールを飲み、独逸《ドイツ》文学を談ず。
 昨日から新しい作品の構想を立て始める。時代は一八一二年頃。場所はラムマムーアのハーミストン附近及びエディンバラ。題は未定。「ブラックスフィールド」? 「ウィア・オヴ・ハーミストン」?

十二月××日
 増築完成。
 本年度の year bill が廻って来る。約四千|磅《ポンド》。今年はどうやら収支償えるかも知れぬ。
 夜、砲声を聞く。英艦入港せりと。街の噂では、私が近い中に逮捕護送されることになっているらしい。
 カッスル社から「壜《びん》の悪魔」と「ファレサの浜辺」とを合せ、「島の夜話」として出そうと言って来る。此の二つは余りに味が違い過ぎて、おかしくはないか? 「声の島」と「放浪の女」とを加えてはどうかと思う。

「放浪の女
前へ 次へ
全45ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング