ぬであろう。此の確信ある絶望は、一種の愉悦でさえある。それは、意識せる・勇気ある・楽しさを以て、以後の生を支えて行くに足るもの――信念に幾《ちか》いものだ。快楽も要らぬ。インスピレーションも要らぬ。義務感だけで充分やって行ける自信がある。蟻の心構を以て、蝉の唄を歌い続け得る自信が。

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市場《いち》に 街頭《まち》に
私は太鼓をとどろと鳴らす
紅い上衣《コート》を着て私の行くところ
頭上にリボンは翩翻《へんぽん》と靡く。

新しい戦士を求めて
私は太鼓をとどろと鳴らす
わが伴侶《とも》に私は約束する
生きる希望と、死ぬ勇気とを。
[#ここで字下げ終わり]

   九

 満十五歳以後、書くこと[#「書くこと」に傍点]が彼の生活の中心であった。自分は作家となるべく生れついている、という信念は、何時、又、何処から生じたものか、自分でも解らなかったが、兎に角十五六歳頃になると、既に、それ以外の職業に従っている将来の自分を想像して見ることが不可能な迄になっていた。
 其の頃から、彼は外出の時いつも一冊のノートをポケットに持ち、路上で見るもの、聞くもの、考えついたことの凡てを、直ぐ其の場で文字に換えて見ることを練習した。其のノートには又彼の読んだ書物の中で「適切な表現」と思われたものが悉《ことごと》く書抜いてあった。諸家のスタイルを習得する稽古《けいこ》も熱心に行われた。一つの文章を読むと、それと同じ主題を種々違った作家の――或いはハズリットの、或いはラスキンの、或いはサア・トマス・ブラウンの――文体で以て幾通りにも作り直してみた。こうした習練は、少年時代の数年に亘って倦《う》まずに繰返された。少年期を纔《わず》かに脱した頃、未だ一つの小説をも、ものしない前に、彼は、将棋《チェス》の名人が将棋に於て有《も》つような自信を、表現術の上に有っていた。エンジニーアの血を享《う》けた彼は自己の途《みち》に於ても技術家としての誇を早くから抱いていた。
 彼は殆ど本能的に「自分は自分が思っている程、自分ではないこと」を知っていた。それから「頭は間違うことがあっても、血は間違わないものであること。仮令《たとえ》一見して間違ったように見えても、結局は、それが真の自己[#「真の自己」に傍点]にとって最も忠実且つ賢明なコースをとらせているのであること。」「我々の中にある我々の知らないものは、我々以上に賢いのだということ」を知っていた。そうして、自らの生活の設計に際しては、其の唯一の道――我々より賢いものの導いて呉れる其の唯一の途を、最も忠実、勤勉に歩むことにのみ全力を払い、他の一切は之を棄てて顧みなかった。俗衆の嘲罵《ちょうば》や父母の悲嘆をよそに彼は此の生き方を、少年時代から死の瞬間に至るまで続けた。「うすっぺら」で、「不誠実」で、「好色漢」で、「自惚《うぬぼれ》や」で、「がりがりの利己主義者」で、「鼻持のならぬ気取りや」の彼が、この書く[#「書く」に傍点]という一筋の道に於てのみは、終始一貫、修道僧の如き敬虔《けいけん》な精進を怠らなかった。彼は殆ど一日としてもの[#「もの」に傍点]を書かずには過ごせなかった。それは最早肉体的な習慣の一部だった。絶間なく二十年に亘って彼の肉体をさいなんだ肺結核、神経痛、胃痛も、此の習慣を改めさせることは出来なかった。肺炎と坐骨神経痛と風眼とが同時に起った時、彼は、眼に繃帯《ほうたい》を当て、絶対安静の仰臥《ぎょうが》のまま、囁《ささや》き声《ごえ》で「ダイナマイト党員」を口述して妻に筆記させた。
 彼は、死と余りに近い所に常に住んでいた。咳込んだ口を抑える手巾《ハンカチ》の中に紅いものを見出さないことは稀《まれ》だったのである。死に対する覚悟に就いてだけは、この未熟で気障《きざ》な青年も、大悟徹底した高僧と似通ったものを有《も》っていた。平生、彼は自分の墓碑銘とすべき詩句をポケットにしのばせていた。「星影繁き空の下、静かに我を眠らしめ。楽しく生きし我なれば、楽しく今は死に行かむ」云々《うんぬん》。彼は、自分の死よりも、友人の死の方を、寧《むし》ろ恐れた。自らの死に就いては、彼は之に馴れた。というよりも、一歩進んで、死と戯れ、死と賭《かけ》をするような気持を有《も》っていた。死の冷たい手が彼をとらえる前に、どれだけの美しい「空想と言葉との織物」を織成すことが出来るか? 之は大変|豪奢《ごうしゃ》な賭のように思われた。出発時間の迫った旅人の様な気持に追立てられて、彼はひたすらに書いた。そうして、実際、幾つかの美しい「空想と言葉との織物」を残した。「オララ」の如き、「スロオン・ジャネット」の如き、「マァスタア・オヴ・バラントレエ」の如き。「成程、其等の作品は美しく、魅力に富んではいるが、要するに、深味の
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