底に動く藍紫色の・なまめかしいばかりに深々とした艶と翳《かげ》。丘は、はや日没の影を漂わせているのに、巨大な雲の頂上は、白日の如き光に映え、火の如く・宝石の如き・最も華やかな柔かい明るさを以て、世界を明るくしている。それは、想像される如何なる高さよりも高い所にある。下界の夜から眺める・其の清浄|無垢《むく》の華やかな荘厳さは、驚異以上である。
 雲に近く、細い上弦の月が上っている。月の西の尖《とが》りの直ぐ上に、月と殆ど同じ明るさに光る星を見た。黒み行く下界の森では、鳥共の疳高《かんだか》い夕べの合唱。

 八時頃見たら、月は先刻より大分明るく、星は今度は月の下に廻っていた。明るさは依然同じくらい。

七月××日
「デイヴィッド・バルフォア」漸《ようや》く快調。
 キューラソー号入港、艦長ギブソン氏と会食。
 巷間《こうかん》の噂によれば、R・L・S・は本島より追放さるべしと。英国領事がダウニング街に訓令を請いたる由。余の存在は島内の治安に害ありとや? 余も亦偉大なる政治的人物にあらずや。

八月××日
 昨日又、マターファの招により、マリエに赴く。通訳はヘンリ(シメレ)。会談中マターファが私をアフィオガと呼んで、ヘンリを仰天させた。今迄私はススガ(閣下に当ろうか?)と呼ばれていたのだが、アフィオガは王族の称呼である。マターファの家に一泊。
 今朝、朝食後、大灌奠式《ローヤル・カヴァ》を見る。王位を象徴する古い石塊にカヴァ酒を灌《そそ》ぐのだ。此の島に於てさえ半ば忘れられた楔形《くさびがた》文字的典礼。老人の白髯《はくぜん》を集めて作った兜《かぶと》の飾り毛を風に靡《なび》かせ、獣歯の頸掛《くびかけ》をつけた・身長六|呎《フィート》五|吋《インチ》の筋骨隆々たる赤銅色の戦士達の正装姿は、全く圧倒的である。

九月×日
 アピア市婦人会主催の舞踏会に出席。ファニイ、ベル、ロイド、及びハガァド(例のライダア・ハガァドの弟。快男児なり、)も同行。会半ばにして裁判所長《チーフ・ジャスティス》ツェダルクランツ現る。数ヶ月前不得要領な訪問を受けて以来の対面なり。小憩後、彼と組になってカドリルを踊る。珍妙にして恐るべきカドリルよ! ハガァド曰《いわ》く、「奔馬の跳躍にさも似たり」と。我等二人の公敵が、それぞれ、厖大《ぼうだい》にして尊敬すべき二人の婦人に抱きかかえられつつ、手を組み足を蹴上げて跳ね廻る時、大法官も大作家も共に、威厳を失墜すること夥《おびただ》し。
 一週間前、チーフ・ジャスティスは混血児の通訳をそそのかして、私に不利な証拠を掴《つか》ませようとあせっていたし、私は私で今朝も、此の男を猛烈に攻撃した第七回目の公開状をタイムズヘ書いていた。
 我々は、今微笑を交しつつ、奔馬の跳躍に余念がない!

九月××日
「デイヴィッド・バルフォア」漸く仕上。と同時に、作者もぐったりして了った。医者に診て貰うと、決って、此の熱帯の気候の「温帯人を傷める」性質に就いての説明を聞かされる。どうも信じられない。この一年間、煩わしい政治騒ぎの中で持続的にやって来た労作のようなものは、まさか、ノルウェーでは出来まいに。兎に角、身体は疲労の極に達している。「デイヴィッド・バルフォア」に就いては、大体満足。
 昨日の午後街へ使にやったアリック少年が、昨夜遅く繃帯《ほうたい》をし眼を輝かして帰って来た。マライタ部落の少年等と決闘、三・四人を傷つけて来たと。今朝、彼はうち[#「うち」に傍点]中の英雄になっていた。彼は一本糸の胡弓《こきゅう》を作り、自ら勝利の唄を奏で、且つ踊った。興奮している時の彼は中々美少年である。ニュウ・ヘブリディスから来た当座は、うち[#「うち」に傍点]の食事が旨《うま》いとて無闇に食過ぎ、腹が凄くふくらんで了って苦しんだことがあったが。

十月×日
 朝来、胃痛|劇《はげ》し。阿片《あへん》丁幾《チンキ》十五滴服用。この二三日は仕事をせず。我が精神は所有者未定《アベイヤンス》の状態にあり。

 曾《かつ》て私は華やかな青年だったらしい。というのは其の頃、友人の誰もが、私の作品よりも私の性格と談話との絢爛《けんらん》さを買っていたようだったから。しかし、人は何時迄もエァリエルやパックばかりではいられない。「ヴァージニバス・ピュエリスク」の思想も文体も、今では最も厭《いと》わしいものになって了った。実際イエールでの喀血《かっけつ》後、凡《すべ》てのものに底が見えて来たように感じた。私は最早何事にも希望を抱かぬ。死蛙の如くに。私は、凡ての事に、落着いた絶望を以て這入って行く。宛《あたか》も、海へ行く場合、私が何時も溺《おぼ》れることを確信して行くのと同様に。ということは、何も、自暴自棄になっているのではない。それ所か、私は、死ぬ迄快活さを失わ
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