」を入れることには、ファニイが不服だという。

一八九三年一月×日
 引続いて微熱去らず。胃弱も酷《ひど》い。
「デイヴィッド・バルフォア」の校正刷、未だに送って来ない。どうした訳か? もう少くとも半分は出ていなければならない筈。
 天候はひどく悪い。雨。飛沫《しぶき》。霧。寒さ。
 払えると思っていた増築費、半分しか払えない。どうして、うち[#「うち」に傍点]は斯んなに金がかかるのか? 格別|贅沢《ぜいたく》をしているとも思えないのに。ロイドと毎月頭を絞るのだが、一つ穴を埋めれば、外に無理が出来てくる。やっと巧《うま》く行きそうな月には、決って英国軍艦が入港し士官等の招宴を張らねばならぬようになる。召使が多過ぎる、という人もある。傭《やと》ってある者は、そう大した人数ではないが、彼等の親類や友人が終始ごろごろしているので、正確な数は判らない。(それでも百人を多くは越さないだろう。)だが、之は仕方がない。私は族長だ、ヴァイリマ部落の酋長《しゅうちょう》なのだ。大酋長は、そんな小さな事にかれこれ云うべきではない。それに実際、土人が何程いても其の食費は知れたものなのだから。うち[#「うち」に傍点]の女中達が島民の標準よりは幾らか顔立が良いとかで、ヴァイリマをサルタンの後宮に比べた莫迦《ばか》がいる。だから金がかかるだろうと。明らかに中傷の目的で言ったには違いないが、冗談も良い加減にするがいい。このサルタンは精力絶倫どころか、辛うじて生きながらえている痩男《やせおとこ》だ。ドン・キホーテに比べたり、ハルン・アル・ラシッドにしたり、色んな事をいう奴等だ。今に、聖パオロになったり、カリグラになったりするかも知れぬ。又、誕生日に百人以上の客を招《よ》ぶのは贅沢《ぜいたく》だという人もある。私は、そんなに沢山の客を招んだ覚えはない。向うで勝手に来るのだ。私に、(或いは、少くとも私のうち[#「うち」に傍点]の食事に)好意をもって来て呉れる以上、之も仕方が無いではないか。祝宴等の際に土人をも招ぶからいけない、などと言うに至っては言語道断。白人を断っても彼等を招んでやり度い位だ。其等|凡《すべ》ての費用を初めから計算に入れて、尚、結構やって行ける積りだったのだ。何しろ斯《こ》んな島のこととて、贅沢はしようにも出来ないのだから。兎に角、私は昨年中に四千|磅《ポンド》以上は書捲《かきま》くった。それでなお足りないのだ。サー・ウォルター・スコットを思う。突然破産し・次いで妻を失い・絶えず債鬼に責められて機械的に駄作を書き飛ばさねばならなかった・晩年のスコットを。彼には、墓場のほかに休息は無かった。

 又も戦争の噂。実に煮え切らないポリネシア的な紛争だ。燃えそうでいて燃えず、消えかかっていて、猶《なお》、くすぶっている。今度も、ツツイラの西部で酋長等の間に小競合があったばかりだから、大した事はなかろう。

一月××日
 インフルエンザ流行。うち中殆どやられる。私の場合には余計な喀血《かっけつ》まで伴って。
 ヘンリ(シメレ)が実に良く働いて呉れる。元来サモア人は極く賤《いや》しい者でも汚物を運ぶことを嫌うのに、小酋長たるヘンリが毎晩敢然と汚物のバケツを提げては蚊帳《かや》をくぐって捨てに行っていた。みんなが大抵|快《よ》くなった今、最後に彼に感染したらしく、熱を出している。近頃彼のことを戯れにデイヴィ(バルフォア)と呼ぶことにしている。
 病中、又新しい作品を始めた。ベルに書取らせる。英国に捕虜となった一|仏蘭西《フランス》貴族の経験を書くのだ。主人公の名がアンヌ・ド・サント・イーヴ。それを英語読みにして「セント・アイヴス」と題しようと思う。ローランドソンの「文章法」と、一八一〇年代の仏蘭西及びスコットランドの風俗習慣、殊に監獄状態に就いての参考書を送って呉れるよう、バクスタアとコルヴィンとに頼んでやる。「ウィア・オヴ・ハーミストン」にも「セント・アイヴス」にも、両方に必要だから。図書館の無いこと。本屋との交渉に手間どること。此の二つには全く閉口する。記者に追いかけられる煩わしさの無いのは良いが。

 政務長官も、裁判所長《チーフ・ジャスティス》も辞職説を伝えられながら、アピア政府の無理な政策は依然変らない。彼等は、税を無理に取立てるために、軍隊を増強してマターファを追払おうとしているようだ。成功するにしても、しないにしても、白人の不人気、人心の不安、この島の経済的疲弊は加わる一方である。
 政治的な事に立入るのは煩わしい。此の方面に於ける成功は、人格|毀損《きそん》以外の如何なる結果をも齎《もたら》さない、とさえ思う。…………私の政治的関心(この島に於ける)が減った訳ではない。ただ、長く病臥《びょうが》し喀血などすると、自然、創作に割く時間が制限され
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