だ。ゴスが言っているそうだ。「チャリング・クロスの周囲三|哩《マイル》以内の地にのみ、文学は在り得る。サモアは健康地かも知れないが、創作には適さない所らしい。」と。或る種の文学に就いては、之は本当かも知れぬ。が、何という狭い捉われた文学観であろう!
 今日の郵船で着いた雑誌類の評論を一わたり見ると、私の作品に対する非難は、大体、二つの立場から為されているようだ。即ち、性格的な或いは心理的な作品を至上と考えている人達からと、極端な写実を喜ぶ人達からと、である。
 性格的|乃至《ないし》心理的小説と誇称する作品がある。何とうるさいことだ、と私は思う。何の為にこんなに、ごたごたと性格説明や心理説明をやって見せるのだ。性格や心理は、表面に現れた行動によってのみ描くべきではないのか? 少くとも、嗜《たしな》みを知る作家なら、そうするだろう。吃水《きっすい》の浅い船はぐらつく。氷山だって水面下に隠れた部分の方が遥かに大きいのだ。楽屋裏迄見通しの舞台のような、足場を取払わない建物のような、そんな作品は真平だ。精巧な機械程、一見して単純に見えるものではないか。
 さて、又一方、ゾラ先生の煩瑣《はんさ》なる写実主義、西欧の文壇に横行すと聞く。目にうつる事物を細大|洩《も》らさず列記して、以て、自然の真実を写し得たりとなすとか。その陋《ろう》や、哂《わら》うべし。文学とは選択だ。作家の眼とは、選択する眼だ。絶対に現実を描くべしとや? 誰か全き現実を捉え得べき。現実は革。作品は靴。靴は革より成ると雖《いえど》も、しかも単なる革ではないのだ。

「筋の無い小説」という不思議なものに就いて考えて見たが、よく解らぬ。文壇から余りに久しく遠ざかっていたため、私には最早若い人達の言葉が理解できなくなって了ったのだろうか。私一個にとっては、作品の「筋[#「筋」に傍点]」乃至《ないし》「話[#「話」に傍点]」は、脊椎《せきつい》動物に於ける脊椎の如きものとしか思われない。「小説中に於ける事件[#「事件」に傍点]」への蔑視《べっし》ということは、子供が無理に成人《おとな》っぽく見られようとする時に示す一つの擬態ではないのか? クラリッサ・ハアロウとロビンソン・クルーソーとを比較せよ。「そりゃ、前者は芸術品で、後者は通俗も通俗、幼稚なお伽《とぎ》話《ばなし》じゃないか」と、誰でも云うに決っている。宜しい。確かに、それは真実である。私も此の意見を絶対に支持する。ただ、此の言を為した所の人が、果して、クラリッサ・ハアロウを一度でも通読したことがあるか、どうか。又、ロビンソン・クルーソーを五回以上読んだことがないか、どうか、それが些《いささ》か疑わしいだけのことだ。
 之は非常にむずかしい問題だ。ただ云えることは、真実性と興味性とを共に完全に備えたものが、真の叙事詩だということだ。之をモツァルトの音楽に聴け。
 ロビンソン・クルーソーといえば、当然、私の「宝島」が問題になる。あの作品の価値に就いては暫く之を措《お》くとするも、あの作品に私が全力を注いだという事を大抵の人が信じて呉れないのは、不思議だ。後に「誘拐《キッドナップト》」や「マァスタア・オヴ・バラントレエ」を書いた時と同じ真剣さで、私はあの書物を書いた。おかしいことに、あれを書いている間ずっと、私は、それが少年の為の読物であることをすっかり忘れていたらしいのだ。私は今でも、私の最初の長篇たる・あの少年読物が嫌いではない。世間は解って呉れないのだ、私が子供であることを。所で、私の中の子供を認める人達は、今度は、私が同時に成人《おとな》だということを理解して呉れないのだ。
 成人《おとな》、子供、ということで、もう一つ。英国の下手な小説と、仏蘭西《フランス》の巧《うま》い小説に就いて。(仏蘭西人はどうして、あんなに小説が巧いんだろう?)マダム・ボヴァリイは疑もなく傑作だ。オリヴァア・トゥイストは、何という子供じみた家庭小説であることか! しかも、私は思う。成人《おとな》の小説を書いたフロオベェルよりも、子供の物語を残したディッケンズの方が、成人《おとな》なのではないか、と。但し、此の考え方にも危険はある。斯《か》かる意味の成人《おとな》は、結局何も書かぬことになりはしないか? ウィリアム・シェイクスピア氏が成長してアール・オヴ・チャタムとなり、チャタム卿《きょう》が成長して名も無き一市井人となる。(?)
 
 同じ言葉で、めいめい勝手な違った事柄を指したり、同じ事柄を各々違った、しかつめらしい言葉で表現したりして、人々は飽きずに争論を繰返している。文明から離れていると、この事の莫迦《ばか》らしさが一層はっきりして来る。心理学も認識論も未だ押寄せて来ない此の離れ島のツシタラにとっては、リアリズムの、ロマンティシズムのと
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