、所詮は、技巧上の問題としか思えぬ。読者を引入れる・引入れ方の相違だ。読者を納得させるのがリアリズム。読者を魅するものがロマンティシズム。
七月×日
先月来の悪性の感冒も漸《ようや》く癒《い》え、この二三日、続けて、碇泊中《ていはくちゅう》のキューラソー号へ遊びに行っている。今朝は早く街へ下り、ロイドと共に政務長官エミイル・シュミット氏の所で朝食をよばれた。それから揃ってキューラソー号に行き、昼食も艦上で済ます。夜はフンク博士の所でビーア・アーベント。ロイドは早く帰り、私一人ホテル泊りの積りで、遅く迄話し込んだ。さて、その帰途、頗《すこぶ》る妙な経験をした。面白い[#「面白い」は底本では「画白い」]から、書留めて置こう。
ビールの後で飲んだバーガンディが大分利いたと見え、フンク氏の家を辞した時は、かなり酩酊《めいてい》していた。ホテルヘ行くつもりで四五十歩あるいた頃迄は、「酔っているぞ。気を付けなければ」と自分で警戒する気持も多少はあったのだが、それが何時の間にか緩んで、やがて、あとは何が何やら、まるで解らなくなって了った。気がつくと、私は黴《かび》のにおい[#「におい」に傍点]のする暗い地面に倒れていた。土臭い風が生温《なまぬる》く顔に吹きつけていた。その時、うっすらと眼覚めかけた私の意識に、遠方から次第に大きくなりつつ近づいて来る火の玉の様に、ピシャリと飛付いたのは、――あとから考えると全く不思議だが、私は、地面に倒れていた間中、ずっと、自分がエディンバラの街にいるものと感じていたらしいのだ――「ここはアピアだぞ。エディンバラではないぞ」という考であった。此の考が閃《ひらめ》くと、一時はっと気が付きかけたが、暫くして再び意識が朦朧《もうろう》とし出した。ぼんやりした意識の中に妙な光景が浮び上って来た。往来で俄《にわ》かに腹痛を催した私が、急いで傍にあった大きな建物の門をくぐって不浄場を借りようとすると、庭を掃いていた老人の門番が「何の用です?」と鋭く咎《とが》める。「いや、一寸、手洗場を。」「ああ、そんなら、よござんす。」と言って、うさん臭そうに、もう一度私の方を眺めてから再び箒《ほうき》を動かし始める。「いやな奴だな。何が、そんならよござんすだ。」…………それは確かに、もうずっと昔、何処かで――これはエディンバラではない。多分カリフォルニアの或る町で――実際に私の経験したことだが…………ハッと気がつく。私の倒れている鼻の先には、高い黒い塀が突立っている。夜更のアピアの街のこととて何処も彼処も真暗だが、此の高い塀は、其処から二十|碼《ヤード》ばかり行くと切れていて、その向うには、どうやら薄黄色い光が流れているらしい。私はよろよろ立上り、それでも傍に落ちていたヘルメット帽を拾って、其の黴臭い・いやなにおい[#「におい」に傍点]のする塀――過去の、おかしな場面を呼起したのは、此のにおい[#「におい」に傍点]かも知れぬ――を伝って、光のさす方へ歩いて行った。塀は間もなく切れて、向うをのぞくと、ずっと遠くに街灯が一つ、ひどく小さく、遠眼鏡で見た位に、ハッキリと見える。そこは、やや広い往来で、道の片側には、今の塀の続きが連なり、その上に覗き出した木の茂みが、下から薄い光を受けながら、ざわざわ風に鳴っている。何ということなしに、私は、其の通を少し行って左へ曲れば、ヘリオット・ロウ(自分が少年期を過したエディンバラの)の我が家に帰れるように考えていた。再びアピアということを忘れ、故郷の街にいる積りになっていたらしい。暫く光に向って進んで行く中に、ひょいと、しかし今度は確かに眼が覚めた。そうだ。アピアだぞ、此処は。――すると、鈍い光に照らされた往来の白い埃《ほこり》や、自分の靴の汚れにもハッキリ気が付いた。ここはアピア市で、自分は今フンク氏の家からホテル迄歩いて行く途中で、…………と、其処で、やっと完全に私は意識を取戻したのだ。
大脳の組織の何処かに間隙でも出来ていたような気がする。酔っただけで倒れたのではないような気がする。
或いは、こんな変な事を詳しく書留めて置こうとすること自体が、既に幾分病的なのかも知れない。
八月×日
医者に執筆を禁じられた。全然よす訳には行かないが、近頃は毎朝二三時間畑で過すことにしている。之は大変工合が良いようだ。ココア栽培で一日十|磅《ポンド》も稼げれば、文学なんか他人《ひと》に呉れてやってもいいんだが。
うち[#「うち」に傍点]の畑でとれるもの――キャベツ、トマト、アスパラガス、豌豆《えんどう》、オレンジ、パイナップル、グースベリィ、コール・ラビ、バーバディン、等。
「セント・アイヴス」も、そう悪い出来とは思わないが、兎角、難航だ。目下、オルムのヒンドスタン史を読んでいるが、大変面白い。十
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