ているのだろうか?
三月×日
「セント・アイヴス」進行中の所へ、六ヶ月以前に註文した参考書が漸《ようや》く到着。一八一四年当時の囚人が斯《か》くも珍妙な制服を着せられ、一週二回ずつ髭《ひげ》を剃《そ》っていたとは! すっかり書きかえねばならなくなった。
メレディス氏より鄭重《ていちょう》な手紙を戴く。光栄なり。「ビーチャムの生涯」は今なお南海に於ける我が愛読書の一つだ。
毎日オースティン少年の為に歴史の講義をしているほか、最近、日曜学校の先生をもしている。頼まれて面白半分しているのだが、今から菓子や懸賞などで子供達を釣っている始末だから、何時迄続くか分らぬ。
バクスタアとコルヴィンとの立案で、私の全集を出そうと、チャトオ・アンド・ウィンダス社から言って来る。スコットの四十八巻のウェイヴァリ・ノヴルズと同じ様な赤色の装釘《そうてい》で、全二十巻、千部限定版とし、私の頭文字を透かし入りにした特別の用紙を使うのだそうだ。生前に、こんな贅沢《ぜいたく》なものを出して貰う程の作家であるか、どうかは、些《いささ》か疑問だが、友人達の好意は全く有難い。しかし、目次を一見して、若い時分の汗顔もののエッセイだけは、どうしても削って貰わねばならぬと思う。
私の今の人気(?)が何時迄続くものか、私は知らない。私は未だに大衆を信ずることが出来ない。彼等の批判は賢明なのか、愚かしいのか? 混沌《こんとん》の中からイリアッドやエネイドを選び残した彼等は、賢いといわねばなるまい。しかも、現実の彼等が義理にも賢明といえるだろうか? 正直な所、私は彼等を信用していないのだ。しかし、それなら私は一体誰の為に書く? 矢張、彼等の為に、彼等に読んで貰う為に書くのだ。その中の優れた少数者の為に、などというのは、明らかに嘘だ。少数の批評家にのみ褒められ、その代り大衆に顧みられなくなったとしたら、私は明らかに不幸であろう。私は彼等を軽蔑《けいべつ》し、しかも全身的に彼等に凭《よ》りかかっている。我《わ》が儘《まま》息子と、無知で寛容な其の父親?
ロバァト・ファーガスン。ロバァト・バアンズ。ロバァト・ルゥイス・スティヴンスン。ファーガスンは来るべき偉大なものを予告し、バアンズは其の偉大なものを成しとげ、私は唯其の糟粕《そうはく》を嘗《な》めたに過ぎぬ。スコットランドの三人のロバァトの中、偉大なるバアンズは別として、ファーガスンと私とは余りに良く似ていた。青年時代の或る時期に私は(ヴィヨンの詩と共に)ファーガスンの詩に惑溺《わくでき》していた。彼は私と同じ都に生れ、同じ様に病弱で、身を持ち崩し、人に嫌われ、悩み、果は、(之だけは違うが)癲狂院《てんきょういん》で死んで行った。そして彼の美しい詩も今では殆ど人に忘れられているのに、彼よりも遥かに才能に乏しいR・L・S・の方は兎も角も今迄生きのび、豪華な全集まで出版されようというのだ。この対比が心を傷ませてならぬ。
五月×日
朝、胃痛ひどく、阿片《あへん》丁幾《チンキ》服用。ために、咽喉《のど》が涸《かわ》き、手足の痺《しび》れるような感じが頻《しき》りにする。部分的錯乱と、全体的痴呆。
最近アピアの週刊御用新聞が盛んに私を攻撃し出した。しかも、ひどく口汚く。近頃の私は最早政府の敵ではない筈で、事実、新長官のシュミット氏や今度のチーフ・ジャスティスとも、かなり巧《うま》く行っているのだから、新聞を唆《そそのか》しているのは領事連に違いない。彼等の越権行為を私が屡々《しばしば》攻撃しているからだ。今日の記事など、実に陋劣《ろうれつ》だ。初めは腹が立ったが、近頃は寧《むし》ろ光栄を覚えるくらいだ。
「見よ。これが俺の位置だ。俺は森の中に住む一平凡人だのに、何と彼等が俺一人を目の敵《かたき》にやっき[#「やっき」に傍点]となることか! 彼等が毎週繰返して、俺には勢力が無いと吹聴《ふいちょう》せねばならぬ程、俺は勢力を有《も》っている訳だ。」
攻撃は街からばかりではない。海を越えて遥か彼方からもやって来る。こんな離れ島にいても尚、批評家共の声は届くのだ。何と色々な事を言う奴が多いことだ! おまけに、褒める者も貶《けな》す者も、共に誤解の上に立っているのだから遣り切れない。褒貶《ほうへん》に拘《かか》わらず兎に角私の作品に完全な理解を示して呉れるのは、ヘンリイ・ジェイムズ位のものだ。(しかも、彼は小説家であって、批評家ではない。)優れた個人が或る雰囲気の中に在ると、個人としては想像も出来ぬような集団的偏見を有つに至るものだ、という事が、斯《こ》うして、狂える群より遠く離れた地位にいると、実に良く解るような気がする。此の地の生活の齎《もたら》した利益の一つは、ヨーロッパ文明を外部から捉われない眼で観ることを学んだ点
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