ならぬ。今となっては、どうにもならない。私が手出をしない方が、彼等哀れな人々にとって、尚、何等かの役に立ち得るかも知れぬのだ。膿《うみ》がつぶれた後の後始末に就いて、我々が多少の援助をなし得る見込が、まだ、ほんの少しはありそうだから。
無力な文人よ! 私は心を抑え、税を納めるような気持で原稿を書き継ぐ。頭の中には、ウィンチェスターを持った戦士の姿がちらつく。戦争は確かに大きな誘惑《アントレーヌマン》だ。
六月三十日
ファニイとベルを連れ街へ下りる。国際|倶楽部《クラブ》で昼食。食後マリエの方角へ行って見る。先日とは違って今日はまるで静かだ。人のいない道。人のいない家。銃も見えぬ。アピアヘ帰って公安委員会に顔を出す。夕食後、舞踏会に一寸立寄り、疲れて帰宅。舞踏会場で聞く所によれば「ツシタラが今度の紛争の原因を作ったのだから、彼、及び彼の家族は当然罰せらるべきだ」と、レトヌの酋長が言っている由。
外へ出て戦に加わろうという子供じみた誘惑に勝たねばならぬ。先ず家を守ること。
アピアの白人連の中にも恐慌が起りつつある。いざといえば軍艦へ避難することになっているとか。目下、独艦二隻在港。オルランドオも近く入港の筈。
七月四日
此の二三日政府側の軍隊(土民兵)が続々アピアに集結。赤銅色の戦士を満載して風上から入港して来るボートの群。その船首で、とんぼ返り[#「とんぼ返り」に傍点]をして景気をつける男。戦士等が舟の上から発する妙な威嚇的な喊声《かんせい》。太鼓の乱打。調子外れな喇叭《らっぱ》。
アピア市中では赤い手巾《ハンカチ》が売切になって了った。赤ハンカチの鉢巻が、マリエトア(ラウペパ)軍の制服なのだ。顔を黒く隈どった赤鉢巻の青年達で、市中はごった返し[#「ごった返し」に傍点]ている。欧風の洋傘をさした少女と、異様な戦士との連立って行く様は、中々面白い。
七月八日
戦は遂に始まった。
夕食後、使が来て、負傷者等がミッション・ハウスヘ運ばれて来ている旨を告げた。ファニイ、ロイドと一緒に提灯《ちょうちん》を持って騎乗。かなり冷えるが、星の多い夜。タヌンガマノノに提灯は置き、あとは星明りで下る。
アピアの街も、私自身も、妙な昂奮の中にある。私の昂奮は、憂鬱《ゆううつ》な・残忍なものであり、他の人々のは、呆然《ぼうぜん》たる、或いは、憤激せるそれである。
臨時に当てられた仮病院は、長いがらん[#「がらん」に傍点]とした建物で、中央に手術台があり、十人の負傷者がいずれも、附添人に囲まれ、部屋の隅々に横たわっていた。小柄な・眼鏡をかけた看護婦のラージュ嬢が、今日は大変頼もしく見えた。独艦の看護卒も来ていた。
医者は未だ来ていなかった。患者の一人が冷たくなりかかっていた。それは、実に立派なサモア人で、色飽く迄黒くアラビヤ人風の鷲型の風貌をしていた。七人の近親者が取囲んで、彼の手足をさすっていた。肺を射《う》ち貫《ぬ》かれたらしい。独艦の軍医が大急ぎで呼びに行かれた。
私には私の仕事があった。続いて運ばれて来るに違いない負傷者の収容の為に、公会堂を使わせて貰い度いと牧師のクラーク氏等が言うので、街中を走り廻って、(極く最近、私が公安委員会に加わるようになったので)人々を叩き起し、緊急委員会を開き、公会堂を提供することに決めた。(一人の反対者あり。遂に説得す。)この事に就いての費用の拠出も可決。
夜半、病院に戻る。医者は来ていた。二人の患者が死に瀕《ひん》している。一人は腹部をやられた者。顔をゆがめつつ、しかし沈黙せる・傷々《いたいた》しき人事不省。
先刻の・肺を射たれた酋長は、一方の壁際で最後の天使を待つものの如く見えた。家族等が其の手足を支えていた。みな無言。突然、一人の女が、死に行く者の膝を抱いて慟哭《どうこく》した。慟哭の声は五秒も続いたろうか。再び、いたいたしい沈黙。
二時過帰宅。街の噂を綜合すると、戦は、マターファに不利だったらしい。
七月九日
漸《ようや》く戦の結果が明らかになった。
昨日アピアから西に進撃を始めたラウペパ軍は、正午頃、マターファ軍とぶっつかった。但し、滑稽《こっけい》なことに、初めは戦争どころか、両軍の将士が相擁してカヴァを酌みかわし、盛んな交驩《こうかん》が行われたらしい。それが、突然の不注意な一発の偽砲から、忽《たちま》ち乱闘に変じ、本ものの戦争になった。夕刻になって、マターファ軍が退き、マリエ外郭の石壁に拠って昨夜一晩中防戦したが、今朝になって終《つい》に潰《つい》えた。マターファは村を焼いて、海路サヴァイイヘ逃れたという。
長い間此の島の精神的な王者だったマターファの没落に対して、言うべき言葉を知らぬ。一年前だったら、彼は、ラウペパをも白人政府をも容易に一掃し得ただろうに
前へ
次へ
全45ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング