かった。医者は、ただ、一時的の苦痛を鎮めて呉れるだけだ。医者は、患者の肉体の故障(一般人間の普通の生理状態と比較しての異常)を見出しはするが、其の肉体の障害と、その患者自身の精神生活との関聯《かんれん》とか、又、その肉体の故障が、其の患者の一生の大計算の中に於て、どの程度の重要さに見積らるべきか、などに就いては、何事をも知らぬのである。医者の言にのみ基づいて一生の計画を変更したりする如きは、何と唾棄すべき物質主義・肉体万能主義であるか! 「何はともあれ、汝の制作を始めよ。仮令《たとえ》、医者が汝に一年の、或いは一月の余生すら保証せずとも、怯《おそ》れずして仕事に向い、而して、一週間に為され得る成果を見よ。我々が意義ある労作を讃うべきは、完成されたる仕事に於てのみではない。」
しかし、少しの過労が直ぐに応《こた》えて、倒れたり喀血《かっけつ》したりするのには、彼も閉口した。如何に彼が医者の言を無視しようとも、之ばかりはどうにもならぬ現実である。(けれども、おかしいことに、それが彼の制作を妨げるという実際的な不便を除いては、彼は、自分の病弱を、余り不幸と感じていないらしく見えた。喀血の中にすら彼は自ら、R・L・S・式をものを見出して、些《いささ》かの満足(?)を覚えていたのである。之が、顔の醜くむくんで来る腎臓炎《じんぞうえん》だったら、どんなに彼は厭《いや》がったことであろう。)
斯《か》くて、若くして自分の寿命の短かいであろうことを覚悟させられた時、当然、一つの安易な将来の途《みち》が思浮かべられた。ディレッタントとして生きること。骨身を削る制作から退いて、何か楽な生業に就き、(彼の父は相当に富裕だったのだから)知能や教養は凡《すべ》て鑑賞と享受とに用いること。何と美しく楽しい生き方であろう! 事実、彼は鑑賞家としても第二流には堕《お》ちない自信があった。しかし、結局、或るのっぴきならぬものが、彼を其の楽しい途から、さらって行って了った。正《まさ》しく、彼でない或るものが。そのものが彼に宿る時、彼は、ブランコで大きく揺上げられる子供の様に、恍惚《こうこつ》として其の勢に身を任せるほかはない。彼は、満身に電気を孕《はら》んだような状態になり、唯、書きに書いた。それが生命をすり減らすであろうとの懸念は、何処かへ置忘れられた。養生したとて、どれ程長く生きられようぞ。たとえ長生したとて、斯《こ》の道に生きるに非ずして、何の良きことがあろうぞ!
さて、そうして茲《ここ》に二十年。医者が、それ迄は生きられまいと云った四十の歳を最早三年も生延びたのである。
スティヴンスンは彼の従兄のボッブのことを何時も考える。三歳年上のこの従兄は、二十歳前後のスティヴンスンにとって、思想上趣味上の直接の教師であった。絢爛《けんらん》たる才気と洗錬された趣味と該博な知識とを有《も》った・端倪《たんげい》すべからざる才人だった。しかも彼は何を為したか? 何事をもしなかった。彼は今パリで、二十年前と同じく、依然、あらゆる事を理解して、しかも、何事をも為さぬ・一介のディレッタントである。名声の挙がらぬことをいうのではない。彼の精神が其処から成長せぬことをいうのだ。
二十年前、スティヴンスンをディレッタンティズムから救ったデエモンは讃えらるべきであった。
子供の時の最も親しい遊道具だった「一|片《ペニイ》なら無彩色・二|片《ペンス》なら色つき」の紙芝居(それを玩具屋から買って来て家で組立て「アラディン」や「ロビン・フッド」や「三本指のジャック」を自ら演出して遊ぶのだが)の影響であろうか、スティヴンスンの創作は何時でも一つ一つの情景の想起から始まる。初め、一つの情景が浮かび、その雰囲気にふさわしい事件や性格が、次に浮かび上って来る。次々に何十という紙芝居の舞台面が、其等を繋《つな》ぐ物語を伴って頭の中に現れ、目前にありあり[#「ありあり」に傍点]と見える其等の一つ一つを順々に描写し続けることによって、彼の物語は誠に楽しく出来上るのだ。薄っぺらで、無性格なR・L・S・の通俗小説と批評家のいう所のものが。他の制作方法――例えば、一つの哲学的観念を例証せんとの目的の下に全体の構想を立てるとか、一つの性格の説明の為に、事件を作上げるとか、――は、彼には全然考えることも出来なかった。
スティヴンスンにとって、路傍に見る一つの情景は、未だ何人によっても記録されざる一つの物語を語る如くに思われた。一つの顔、一つの素振も、同様に、知られざる物語の発端と見えた。真夏の夜の夢の文句ではないが、其等、名と所とを有たぬものに、明確な表現を与えるのが詩人――作家だとすれば、スティヴンスンは確かに生れながらの物語作家に違いない。一つの風景を見て、それにふさわしい事件を頭の中に組立
前へ
次へ
全45ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング