今や政府側の軍備が充実したに違いない。一年前と比べて、情勢はマターファに著しく不利だ。役人達・酋長《しゅうちょう》達に会って見ても、戦争を避けようと真面目に考えている者がないのに驚かされる。白人官吏は之を利用して自分等の支配権の拡充を考えるだけだし、土人、殊にその青年共は戦争と聞いただけで、ただもう興奮して了う。マターファは案外落着いている。彼は形勢の不利を自覚していないのだ。彼も、彼の部下も、戦争を、自分等の意志を離れた一つの自然現象と考えているようだ。
ラウペパ王は、彼とマターファとの間に立とうとする私の調停を斥《しりぞ》けた。面と向っている時は極めて愛想の良い男だのに、会わないでいると、直ぐ斯《こ》うだ。彼自身の意志でないことは明らかだが。
ポリネシア式の優柔不断が戦争を容易に起させないであろうことを唯一の頼として、拱手《きょうしゅ》傍観している外はないのか? 権力を有《も》つのは善い事だ。もし、それが、それを濫用しない理性の下にある時は。
ロイドに手伝わせながら「退潮《エッブ・タイド》」遅々として進行中。
五月×日
「退潮《エッブ・タイド》」に苦吟。三週間かかって、やっと二十四頁。それも全部に亘って、もう一度書直しを要するのだ。(スコットの恐るべき速さを考えると厭《いや》になる。)第一、これは作品としても下《くだ》らぬものだ。昔は、前日書いた分を読返して見るのが楽しかったのに。
マターファ側の代表者が政府と交渉の為、毎日マリエからアピアヘ通《かよ》っていると聞いて、彼等をうち[#「うち」に傍点]へ引取って、此処から通わせることにした。毎日往復十四|哩《マイル》では大変だから。但し、この事によって、私は今や公然と叛乱者側の一員と認められるようになった。私への書簡は一々チーフ・ジャスティスの検閲を受けねばならぬ。
夜、ルナンの「基督《キリスト》教の起原」を読む。素晴らしく面白い。
五月××日
郵船日だというのに、やっと十五頁分(「退潮《エッブ・タイド》」)しか送れない。もう此の仕事は厭になった。スティヴンスン家の歴史でも又続けようか? それとも、「ウィア・オヴ・ハーミストン」? 「退潮《エッブ・タイド》」には全く不満だ。文章に就いて云っても、言葉のヴェイルがあり過ぎる。もっと裸の筆が欲しい。
収税吏に新宅の税を督促さる。郵便局へ行き、「島の夜話」六部を受取る。挿絵を見て驚いた。挿絵画家は南洋を見たことがないのだ。
六月××日
消化不良と喫煙過多と、金にならぬ過労とで、全く死にそうだ。「退潮《エッブ・タイド》」百一頁迄漸く辿《たど》りつく。一人の人物の性格がはっきり掴《つか》めない。それに近頃は文章に迄苦労するんだから、話にならぬ。一つの文句に半時間かかる。色々な類似の文句を無闇に並べて見ても、中々気に入るのが見付からない。斯んな莫迦《ばか》げた苦労は、何ものをも産みはせぬ。くだらぬ蒸溜《じょうりゅう》だ。
今日は朝から西風、雨、飛沫《しぶき》、冷々した気温。ヴェランダに立っていたら、ふと、或る異常な(一見根拠のない)感情が私を通って流れた。私は文字通り、よろめいた。それから、やっと説明がついた。私は、スコットランド的な雰囲気とスコットランド的な精神や肉体の状態を見出したからだと悟った。平生のサモアとは似てもつかない・この冷々した・湿っぽい・鉛色の風景が、私を何時しか、そんな状態に変えていたのだ。ハイランドの小舎。泥炭の煙。濡れた着物。ウイスキイ。鱒の躍る渦巻く小川。今此処から聞えるヴァイトゥリンガの水音までが、ハイランドの急流のそれの様な気がして来る。自分は何の為に故郷を飛出して、こんな所迄流れて来たのか? 胸を締めつけられる様な思慕を以て遠くからそれを思出すために、か? ひょいと、何の関係もない・妙な疑念が湧いた。自分は今迄何か良き仕事を此の地上に残したか? と。之は怪しいものだ。何故又私は、そんな事を知りたいと望むのか? ほんの僅かの時が経てば、私も、英国も、英語も、わが子孫の骨も、みんな記憶から消えて了うだろうに。しかも――それでも人間は、ほんの暫しの間でも人々の心に自分の姿を留めて置きたいと考える。下らぬ慰みだ。…………
こんな暗い気持にとりつかれるのも、過労と、「退潮《エッブ・タイド》」の苦しみとの結果だ。
六月××日
「退潮《エッブ・タイド》」は一時暗礁に乗上げたままにして置いて、「エンジニーアの家」の祖父の章を書上げた。
「退潮《エッブ・タイド》」は最悪の作品に非ざるか?
小説という文学の形式――少くとも私の形式――が厭になって来た。
医者に診て貰うと、少し休養をとれ、と云う。執筆を止めて軽い戸外運動だけにすることだ、と。
十一
医者というものを、彼は信用しな
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